ちょっとね、体調崩しちゃって。
これが配信される頃には治ってる予定なんだけれども。
そんなわけでね、ちょっとテンション低めでオフビートで、いつもオフビートだけれども、配信していこうかなと思っているんですが。
これ(stand fm)聴いている方のね、年代はまちまちだとは思うんですけども、90年代を代表するロックバンドのひとつであるthe pillowsっていうロックバンドがいるんですけど、先月1月31日で解散したっていうね。
そういうお知らせがSNSで流れてきて。
僕自身、そのピロウズ、そんなに詳しいわけじゃないからね、ピロウズについてそんなに語れるわけではないんだけれども。
90年代ってちょうど学生の頃だったからもちろん聞いていたし、おそらく今のいろんなミュージシャンにも多大なる影響を与えていたグループだと思うから、ああ、そうなんだってね、いうのがありまして。
で、そのピロウズっていうバンドの代表曲に「スケアクロウ」っていう曲があるんですよね。
「スケアクロウ」だけ知っているっていう人も結構多いんじゃないかなっていうぐらい、これは代表曲のひとつになってるんですけど、その中でね、僕がすごく好きな歌詞があって。
「誰かが語った 現実という名の物語が答えじゃないぜ」っていうところがあるんですよね。
僕、すごいそうだなって思うところがあって。
もちろんね、この歌詞の本当の意味っていうのはさ、本人に聞いていないからわからないけど、僕が自分なりに受け取った意味ではすごく共感していて。
特に僕自身が舞台に立ったりね、ちっちゃいですけど、あと営業をやっていたりっていう時に、なにか物事の事実をありのままに語るっていうことって、そんなにないんですよね。
営業ってなにかを買ってもらってなんぼですから、契約をしてもらってなんぼですから、嘘はもちろんつかないんですけど、いわゆる「物語」を共有するっていうのが大事だったりするんですよね。
要はすべて本当のことを言っているんだけれども、「相手にどういう物語を自分と共有してもらえれば、この商品を買ってほしいって思ってもらえるだろう」みたいなことは常々考えるわけですよ。
説明書みたいな語り方をして聞いてくれる人はいないからね。
もちろん、それを購入してもらったり、入ってよかったなっていうふうに思ってもらえるように、そこも物語を設計するわけだけれども、そこにはやっぱり自分なりに組み立てたものっていうのがあるわけですよ。
さらに言うと、お芝居とかフィクションの世界っていうのは、実際にあった話でないことがほとんどですよね。
僕はフィクションで実際にあったことっていうのはあり得ないっていうふうに思っていて、それはドキュメンタリーですらも実際にあったこととは言えないんじゃないかと思っているぐらいなんですね。
そこにカメラが入ってしまった時点で、それまでのカメラに映された人たちやモノ、日常を一定程度壊すことになるので、ありのままを撮るっていうことはできないっていうふうに思うから。
エンターテインメントならびにそういった作品っていうのは、少なからずフィクションの要素っていうのは含まれていると思っているので。
で、さらに言うと、そういったことの方が大事だと思っているんですよね。
フィクションっていうものが大事だと思ってるんですよ。
どうしても、「嘘じゃん」みたいなことって言われがちなんですよね。
たとえばですけど、ご都合主義的な映画とかさ、実際はこんなことありえないよって、映画の感想でね、よく言われるんですよ。
うん、言われますよね。
思ったりもすると思うんですけど、実際を描いた方がいいのかっていうのは、僕は甚だ疑問だと思っていて。
じゃ、実際ってこういう世界だよねっていう、たとえば僕がいる営業組織の映画を作ったとして、実際僕が感じている営業組織と同じようなものが描かれていたとしてね。
それになんの意味があるんだろうかって。
それ、僕が体験しているものに過ぎないじゃんっていうことじゃないですか。
そうというよりは、あるひとつの清らかなものを提示するっていうのも、エンターテインメントの役割なんじゃないかなと思うんですよ。
もちろんそれだけじゃないんですよ。
役割のひとつだと思うんです。
たとえば、営業のところを物語にするんであれば、営業ってこういう形であった方がいいよねっていう姿を描くことがすごく大事だと思っていて。
実際それがその通りにならなかったとしても、日常を生きている時に、日常って、清濁併せ吞まなきゃいけないところってあるじゃないですか。
自分はこういうふうなプロセスで進めたいし、こうしたほうがお客さんのためになるし、自分はこういうふうに思っている。
でも周りの都合を考えるとそうはいかないっていうことってあるんですよね。会社から求められていることはそれじゃないし、部署が存続していくためにやるべきことはそういうことではないし、上司にとってはもっと違うことを求めたいと思うし。
そうすると自分の中の清さっていうものを一定程度捨てなければいけなかったり、そういう葛藤があると思うんですけれども、だからこそ、自分の中で清いもの、こういうふうにありたいんだっていうものを強く持った上で、そのズレっていうのとある時は戦って、ある時は折り合いをつけながら生きていくっていうのが現実なんじゃないかなっていうふうに思うんですよ。
そもそもが、世の中っていうのはきれいごとじゃすまないことなんだからって言って、自分の中でひとつのきれいごとも持たずに過ごしてしまったら、やっぱり周りに流されてしまうか、腐ってしまうと思うんですよね。
いろんなことを諦めてね。
だからこそ、自分の中の清い部分っていうものを大切に持っておいた方がいいと思う。
その上で、私にとって清い部分というのはこういう部分だけど、この人にとって清いことっていうのはこういうことなんだ、清さっていうのは人の数だけあるんだっていうことがわかって、お互いの清さをどうしたら最大限尊重できるかっていうことをやっていくのが人間関係なんじゃないかなっていうふうに僕は感じるんですね。
だからこそ、フィクションの中であるひとつのきれいごとだったり、清い部分っていうものを提示する。
それがすごくその通りだと思ったら、その人の中に清いものがひとつインストールされると思うし、自分の清いものとは違うなって思ったら、それじゃない清いもの、自分にとっての清いものっていうのを考えるきっかけにもなるので、エンターテインメントっていうのは、僕はある種きれいごとであったり、ご都合主義であったりでいうふうであるべきであるっていうふうに思うところがあるんですよね。
話を戻すと、ピロウズの「誰かが語った 現実という物語が答えじゃないぜ」っていうのが、僕にとっては誰かの清さだったりとか、「現実ってそんなもんじゃないよね、もっと汚いものだよね」とかいう周りの意見や考え方に流されすぎてしまうと、どんどん生きづらくなってしまうような気がするので。
誰かが語ったものによって自分にインスパイアされて、自分の中で持っている大切なものが強化されるんだったらいいんだけども。
「そうなんだ」って、「誰かが語った『現実』という物語」が答えだと思ってしまわないように、僕は流されていかない自分でありたいなっていうふうに思ったんですよね。
僕もピロウズを追いかけていたわけではないので、「ずっと聞き続けてたのに1月31日で解散しちゃったのかよ」みたいなことでは実はないんですけど。
やっぱりこう、昔を思い出してね、すごく懐かしいなと思ったし、好きな曲がいくつかあってね、「Tokyo Bambi」とか、名曲がたくさんあるのでね、そういうのはたまに聞いたりしてたんで、寂しいなとかって思いながら。
そうだな、好きな歌詞があったなって思ったので、今日はそんな話をさせていただきました。
よかったらね、知らない方もサブスクで聞けますので、「スケアクロウ」聞いてみてください。
はい。というわけで今回も終わりにしようかなと思います。
今回もありがとうございました。バイバイ。