僕、リアルしゃびはですね、いつも通勤するときに電車通勤なんですよね。
東京に住んでいて、朝は都心部に向かって行く電車に乗るので、結構混んでるんですよ。
幸いにして座れるんですけど。
でね、この間電車で座っていたら、立っている乗客の人も多くてね。
混んでるから。
ふと足元を見たらバッタがいたんですよ。
結構でかいバッタが。
バッタの種類はよく知らないが、何バッタとかってわかんないんだけど、殿様バッタ的なビジュアルのやつが、おっきいのがいてね、あ、と思って。
満員電車の地面(床)だよ。
地面にいるからさ、危ないなと思って、踏んづけられちゃうじゃん、いっぱい人乗ってるからね。
僕は座ってるからさ、それ、すごい視界に入るわけですよ。
踏みつぶされちゃうのを見るっていうのも忍びないしさ、でも助けてあげるっていう距離でもないんですよ。
助けられない距離だったりもして、ああ、と思って、見ないふりしたりしてね。
でも、なんか気になっちゃうわけですよ、だって視界に入る位置にさ、ちょっと下向いたらさ、少し遠いんだけど、いるからね。
それで、見守ってたんですよね。
なんとか助かるといいなと思って。
バッタって飛ぶじゃん、人が来たら。
でも、全然飛ばないわけ。
ずっと立ちすくんだ状態でさ、ノコノコ、ノコノコね、ちょっとずつ歩くんですよ。
よく見たら足を怪我してて、うまく歩けないんですよね。
だから、カタカタ、カタカタ、足を引きずりながら、人間で言うとね、足を引きずりながら歩いてる状態。
だからさ、そんなところに入ってきちゃってるから、人間がたまたま足の部分だけ踏んづけちゃって、取れちゃったとかで、その足が一本機能してないわけですよ。
だから動けないんですよね、うまく飛べないし。
それで、ノロノロ歩いてて、これはちょっと終わったなと思ってたらさ、そのバッタが、頭いいんですよ。
人によじ登り始めたんですよね。
人の足をよじ登り始めたんですよ。
バッタってさ、大きめのバッタだったけど、それでもちっちゃいから、感触としてはわかんないんですよね。
スーツを着たサラリーマンの、そのスラックスの裾を、靴の部分を這って、スラックスのところをよじ登り始めたんですよね。
で、立ってる乗客が気付いてないんですよ。
ここだと結構安心だなって、(バッタが)そのまま出られるなと思って。
でさ、ずっと見てて、もう(スラックスから)降りないといいなと思って。
下手に降りちゃうと、もう絶対踏みつぶされちゃうからね、駅に着いて、降りる乗客に巻き込まれて。
結果的に、そのバッタね、スーツを着たサラリーマンの足にへばりついたまま出てったんですよ。
よかったと思ってねえ。
踏みつぶされちゃうのを、なにもできずに見守っているっていうのもね。
朝ですよ、朝の通勤電車で嫌だなと思って、それでちょっと安心したわけなんだけどさ。
しかしながら想像してみるとね、バッタも前途多難ですよね。
足にへばりついていたところでさ、ずっと足にへばりつき続けるっていうのも、なかなか難しい部分があるし。
だから、途中で落っこっちゃう可能性は高いわけですよ。
落っこっちゃちゃうと、あのバッタはもう足を怪我して飛べないからさ、また結局どっかで踏みつぶされちゃうのかな、とかさ。
で、駅の構内から外に仮に出られたとしてもさ、この状態で餌にありつけるんだろうか、とかさ。
だから結果的には、どっかで踏み潰されちゃったりなんかして死んじゃうんだろうな、とかって思ってね。
だけど、人間って都合がいいもんでさ、やっぱり見えてないと、自分の案件じゃないっていう感覚にちょっとなっちゃいますよね。
出ていってからちょっとの間でも、見えるところにずっといられたら心配だけど、いなくなっちゃうと忘れちゃうっていうね。
そういうところがあって、人間って都合がいいななんていうね、そういうことを思ったわけですよ。
よくよく考えてみると、人間もこういうことがあるのかもしれないな、なんて思ってね。
そのバッタにしてみればさ、そんなに危機感ないと思うんですよね。
自分のいるところが死と隣り合わせの場所であるとか、非常に恐怖だっていう感覚ってたぶんなくて。
大体にして、電車に乗ったことがないから、このバッタはどういう状況かもよくわかってないままに、たまたまよじ登った先が電車の外から出られるところだったっていうだけで、あんまりよくわかってないと思うんですよ。
今にも踏み潰されそうだぜ、みたいなことって。
人間もさ、そうかもしれないですよね。
自分の身の回りのことはある程度理解してるかもしれないけどさ、ちょっと物騒な話だけど、首都直下型地震がね、高い確率で30年以内に70%の確率で来るよとかってね。
物騒なこと言ってるけど、それってさ、どのような状態に今なってるかがわかんないじゃないですか。
ただ、今僕がしゃべってる一時間後に、もう全然地震ですけど、みたいな状態かもしれないじゃん。
でも、わかんないからこうやって能天気におしゃべりができてるわけで、いろんなことが自分たちの預かり知らないところで起きてるんだけど、気づいてないっていうのが大方なんだろうなっていうね。
バッタみたいなもんでね、隕石がすごい近づいてきてるかもしれない、全然確認できないぐらい遠くからさ、そういう可能性がほんとは色々あるところに、僕らは一部の情報だけを知ってて、色々備えたりしているだけなのかもしれないな、なんてことを思ったわけですよ。
人間ってさ、他の動物がどうかわかんないけどさ、他の動物になってみたことがないから。
多くの動物と決定的に違う要素ってたぶんね、「死」を分かっているっていうところにあるんじゃないかなと思うんですよね。
本能的に、バッタも死なないようにするだろうし、サバンナのシマウマもライオンに食われないようにするんだけど、じゃあ、ライオンに食われなかったとして、「でも言うて、あと何十年後には死ぬしな、俺」みたいなことって、シマウマはたぶん思ってないと思うんですよね。
バッタも思ってないと思うんですよ。
シマウマやバッタの寿命、知らないけどさ。
猫は自分の死を察して死に場所を選ぶっていうけど、初めから「自分の寿命って大体15年ぐらいだから、そっか、あと5年後か」とは思ってないと思うんですよね。
死ぬ間際になって、自分が死ぬんだなっていうのを察していくってことはあっても。
でも、人間って例えばさ、40歳だったら、長くたって、もう50年とか。
人生100年時代って言うからね、60年かもしれないけど。
そのぐらいの時期に死ぬわけじゃないですかね。
まあ、40歳だったら60年あたりの振り幅で死ぬってことがわかってるわけですよ。
で、その前にも死ぬかもしれないっていうふうに思ってて、「人間はいつ死ぬかわからないし、普通に生きたらあと何十年生きるんだな」みたいなことを認識してしまっているっていうのが、良くも悪くも人間の特徴なんじゃないかなっていうふうに思うんですよね。
だからこそ、人って「今を生きよう」って意識しないと、そうは考えないと思うんですよ。
だってさ、4、50年生きるかもしれないわけだから、例えば4、50年生きるかもしれないのにお金を全部使っちゃおうっていうのはなかなかの選択でね。
やっぱりちょっと貯蓄しとこうとかさ、未来で増えるように積み立てNISAをしておこうとかさ、そういう備えをしたりするわけじゃないですかね。
年金問題はどうだろうとかさ、いろんなこと心配したりね。
例えばさ、今の会社に勤めていても、本当は今の会社に勤めてなくて、こんなことをやりたいっていうことを思ってたとしても。
大きな会社に勤めてたとしたならば、ここにいれば60歳なり65歳で退職金がもらえるし、毎月決まった給料はもらえて、そこで収益は確保できてるんだから、他のところにやりたいことがあったとはいえ、それをスパッとやめてほかの仕事にするっていうのは、長いスパン考えてみるとかなりリスキーな選択肢だと思ってやらないとかさ、そういうのが少なからずあるわけですよ。
それは自分が何十年生きる可能性があるっていうことをリアルにわかってしまっているからだと思うんですよね。
だって、明日死ぬかもしれない、明日死ぬんだと思っててさ、今日貯蓄しようと思わないじゃないですか。
その「死」っていう概念がなかったら、貯蓄しようと思わないと思うんですよ。
死ぬっていうことそのものがよくわかんない。
とにかくライオンに食われたら死ぬから逃げましょうみたいな。
その時のリアルな肌感覚しかないんであれば、貯蓄も積み立てNISAもしないと思うんですけど、そうじゃないからするわけですよね。
ただ一方で、さっき言ったように首都直下型地震が、僕がしゃべっている一時間後に来るかもしれないし、隕石が近づいてるかもしれないっていうのは(可能性として)あるわけで。
ここが人間の難しさだなって思うんですよね。
だから、最近よくあるメッセージとして、マインドフルネスとか、今を生きるっていうのが大事だよっていうメッセージはあるものの、ね。
今をずっと、「今」ってできるかっていうとなかなか難しい。
やっぱり人間の生存本能っていうのが、自分は長いスパンで死んでいくかもしれない、何十年後に死ぬかもしれない、だから今こうしておこう、こういうふうにしないでおこう、みたいな。
たぶん、生存本能の働き方を人間はする傾向にあって、そのせいでというか、そのおかげでというか、「今を生きる」っていうことがなかなか難しくなってくる。
でも結局、今を生きないで、未来の不安でやっていった時に、いきなりスパッと命が終わってしまう可能性もあるし。
あとは、60歳になった時に、定年したから自分の好きなことをやろうと思ったら、思うように体が動かなくて、病気も抱えているから、あの時やりたいと思ってたことは結局できませんでしたってこともあるんだろうし。
そこに関して結論は出ないけども、そういうことだなとは思うんですよね。
ただひとつ言えるのは、(人間が)いろんなことができるようになったっていうのは、バッタと違うよね、と思うんですよね。
例えばこういった音声配信ひとつとってもさ、僕が高校生の時なんか考えられなかったわけですよ。
音声で配信するの。
オールナイトニッポンとかでやってる有名人のイメージだからね。
伊集院光みたいな。
伊集院光のラジオ、一時期聞いてたことがありましたが、なんかそういう、殿上人(てんじょうびと)がやるものだと思ってたのがさ。
こんな好き勝手しゃべれるようになってるわけでね。
少しずついろんなことができるようになってるし、10年、20年前には決してできなかったことが今できるようになっているけど、その生活スタイルっていうのは、何十年前の日本でよくあった姿とあまり変わらないっていうことであれば、ちょっともったいないよねっていうふうには思うんですよね。
普通に会社に勤めて給料もらって、みたいなさ。
帰ってきたら少しスマホで遊んで寝て、みたいなのがすごい楽しければいいんですけど、今、いろんなことができるようになったわけで。
僕、絵描くのすごい苦手なんですけど、でも、AIの「Midjourney」(ミッドジャーニー)とか使えば綺麗な絵が描けるから、僕の好きな絵が再現できるかもしれないっていう。
僕はAIを使って絵描きになれるのかもしれないしさ。
僕、絵描きになりたいわけじゃないけどね。
今は希望を持って使えるようなものっていうのがたくさんある中で、少し「今」に目を向けて、今自分がやりたいことはなんなんだろうか、それには、今の技術でどれだけのことができるんだろうか、みたいなことにね。
未来の不安っていうのはさ、もう思っちゃうもんだから、それはいいとして。
もう少しシフトしていってもいいんじゃないかな、なんてことをね、自分がね、すごい思いますね。
僕もめちゃくちゃ普通のサラリーマンなんで、なかなか未来への不安を払拭するのは難しいけども、あのバッタを見ていたら、ああ、今を楽しく生きた方がいいのかな、なんていうふうに思いました。
はい、今日はそんなところで終わりにしようかなと思います。
今回もありがとうございました。バイバイ。