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10.「今を生きる」ってどういう状態?

この間、前々回の放送かな。
バッタの話をした回があったと思うんですけど、その中で「今を生きる」っていう話を少しさせていただいたかなと思って。

それに対して、コメントいただいて。
stand fmでコメントをいただくこともあるんですけど、Threadsの投稿の中で感想を聞かせてもらえるケースもとても多くてね、僕はそういった感想を読むのがすごく楽しいなって思うし、すごくためになるなっていうふうに思うんですけど。
そのコメントの中でも「今を生きる」っていうことがけっこうキーワードになっていてね。
現代的なテーマじゃないですか。
「今を生きる」ね。
マインドフルネスとかって言いますし。うん。

「今」を生きたいよねっていうのは、現代の多くの方が思っていることかなとは思うし、僕もなかなかそういうことを実践はできないけど、そういうふうに生きていきたいなって思うわけですよね。
ただ、人間、なかなかそうはいかないね。
未来や過去に相当とらわれてしまうっていうのはありますよね。

これはね、この間の放送でも話をしたけど、ある程度しょうがないことかなとも思うんですよね。
人間って、他の動物と違って、想像力が働いてしまうわけですよね。
危険予知みたいな想像力はむしろ野生動物の方が優れてるのかもしれないけど、いわゆる大きな未来に対する想像みたいなものは、やっぱり人間独特なものかなと思うんですよね。
50年後どういう社会になってるんだろうとか。

5年後、例えば5年、10年経って、自分は今××歳だと。
そのぐらいの歳になってくると、体に病気が出てきたり、持病とか抱えたりして健康的じゃなくなってしまうかもしれないから、今のうちに食生活に気をつけておこうとか、そういう少し遠めの未来のこともいろいろ予期できる、想像できるっていうのが人間の特徴だったりもするのでね。
「今」っていうのはなかなか難しかったりもしますよね。

あとはやっぱり、まわりには成功者がいっぱいいるわけで、自分はあの時こうしていれば、今はこんなんじゃなかったはずなのにな、とかね。
たとえば歌手になりたい人がいたとして。
歌手として成功したある人を見ると、その人は小学生ぐらいからずっと音楽をやり続けていて、20代になってやっと眼が開いて、一流のミュージシャンになったと。
それを自分に置き換えてみたら、高校、大学もぶらぶらしてしまって、ミュージシャンに憧れてると言いながらもたいして音楽活動もしてこなかった、いや、もっと昔からやっとけばよかったな、みたいな後悔をすると思うんですよね。

こういった後悔ってたいていあるような気もするし、未来に対する不安だったりとか、逆に言うと希望だったりとかっていうのがいっぱいあると思うんですよ。
その中で、「言ってもしょうがない」って話があるじゃないですか。
未来のことをあれこれ考えてたってしょうがないじゃない。
だから「今」に生きた方がいいよとか、過去のことをいろいろ言ったって過去は変わらないんだから、「今」を生きようよ、みたいなメッセージってあると思うんですよね。
それもおっしゃる通りだと思うんだけど、でも、その「今を生きる」ってどういうことなのかなっていうのも、ちょっと考えたいなと思うわけですよ。
「今を生きる」ってどういう状態なんだろうっていうさ。

この間の放送で話したバッタとか、サバンナで暮らしているシマウマとかね、そんな調子で生きていくってことなのかな、とかね。
おそらく、人間とそれ以外の動物の大きな差で、多くの動物って三大欲求というか、生存本能に根差してるんだと思うんですよね。
きちっと睡眠を取りたいとか、お腹を空かせたくないとかさ、自分の種を残していきたいとかね、そういった性的な欲求だとかさ。
衣食住に関わる欲求っていうのが備わっていて、それに忠実な行動を取るんだと思うんですよね。

例えばハイエナが鹿を捕らえたとして、鹿1頭、エサとして手に入りましたっていう時に、これをどうにかして1ヶ月に分けて食べる方法はないかと。
しばらく捕れないかもしれないから、どうにか貯蔵して、分けて食べることができれば狩りをする回数が少なくて済むぞと。
小分けにして食べて、残りは涼しいところに置いて保存しよう、みたいなことは、そんな考えはないと思うんですよね。
今必要な分は全部食べちゃうと。
それがなくなっちゃって、なくなっちゃった後に鹿がなかなか捕れなくて飢えてしまったとしても、そんなことは考えないで食べちゃうわけですよね。

人間じゃなくて動物って基本的にはそういった生存本能に忠実なんだろうなっていうふうに思うわけですよ。
で、それが正しく「今を生きる」っていうことだったりもするわけじゃないですか。
じゃあ、それを人間に置き換えた時に、生存本能に従って動物のように生きるっていうのが「今を生きる」ってことなのかっていうことを思うわけですよね。

これは自分の知り合いの話なんですけど、知り合いっていうか、後輩の話なんですけど。
この人、けっこう動物的な人で、とにかく金遣いが荒い人なんですよね。
金遣いが荒いから借金してて、借金してるからクレジットカードも作れないみたいな状態でね。
この間、一緒に出かける用があってね、電車に乗って出かけなきゃいけないんだけど、電車に乗れないって言うんですよ。
もういい大人なのに、電車に乗る金がないって言うんですよね。
スマホでSuicaとかPASMOがあるから、ピッてやれば行けるじゃないですか。
それが行かれないんだと。
いやいや、チャージしたらいいじゃない。
いや、財布の中にお金がないから、チャージができないんだと。
でも、スマホってお金入れてチャージしないじゃないですか。
クレジットカード決済でチャージするじゃないですか。
でも、その人はクレジットカード登録できないから、現金じゃないとチャージできない。
で、その大切な現金も、その日はちょうど給料日だったみたいで、給料日の前日に「明日は給料日だから財布の中にある金を全部使ってしまおう」って、全部使っちゃったんですって。
なにに使ったのかって聞いたら、だいたい酒とか全部買っちゃいましたね、とか言って。
給料日の前日だからって、財布の中にあるお金を全部使って、お酒を買ってしまうっていうね。
そしたらチャージするお金がないから、電車に乗れないっていうことが起こったりしてね、「こりゃマジで動物的だな」なんて思ったりするんですよね。

ちょっと、こういう配信で言うのもなんなんだけど、その人の趣味っていうのがね、ハプニングバーに行くことなんですよね。
ハプニングバーって、僕も行ったことないんですけど、乱痴気騒ぎとかをするバーみたいなのがね…、ちょっとあんまり細かく言うもんじゃないから言わないけどね。
それが好きでよく行っていてね、だから、いわゆる性欲もわりと強くて、お酒を飲みたいっていうさ、飲み食いの欲も強くて、みたいなね。
そういった意味で、本来で言うところの、生存本能が強いってことでもあると思うんですよ。

でもね、「今を生きる」って言った時に、その人を見習いたいかって、僕、見習いたくないわけですよ。
そういうふうになりたいとはそんなに思わない。
その人にとっては幸せかもしれないから別に悪くはないんだけど、じゃあ、この人は今を生きてていいねって思うかっていったら、僕はあんまり思わないわけですよね。
だから、そういう生き方「じゃない」生き方がしたいなって思うわけですよ。

でもさ、考えようによっちゃ、バッタと一緒でね。
生存本能で生きてるっちゃ生きてるわけだから、極めて動物的でいいじゃないかっていうふうにも取れるわけですよね。
じゃあなんで人間だけが、いわゆる動物的な「今を生きる」ってことをした時に、あんまりいい感じがしないのかな。
動物的に生きてるにも関わらず、それが「今を生きる、じゃなくね?」みたいになるのかなって思った時に、人間とその他の動物のすごく大きな差のひとつに「商業」っていうのがあると思うんですよね。

役割分担って言ってもいいのかもしれないけど、基本的にいろんなビジネスが身の回りにはあるわけじゃないですか。
そのいろんなビジネスっていうのは、顧客を獲得しなければいけないから、顧客に対してサービスなり、仕掛けを打つわけですよね。
そうすると、人間の身のまわりには生存欲求を満たせるものが、現代人のまわりにはたくさんあるんだと思うんですよ。
すごくお腹いっぱいになったっていう、満腹感が得られる食べ物だとか、ハプニングバーとかもさ、性欲の一種だったりもするわけでしょ。
たぶんそういう、生存欲求を簡単に満たせますよっていうものが身のまわりに溢れているんじゃないかなと思うんですよね。
ゲームをやることによって起きる興奮状態とかっていうのも、根本には生存欲求みたいなものが働いているんじゃないのかなって。
そういったものを巧みに操作する形でサービスとか商品を買ってもらえるようにしているんだろうなって。
別に悪いことじゃないですよ。
そういうが商いの世界だと思うのでね。

僕がすごく不思議なのは、なんで人間は「生きたい」っていう本能があるのに、体に悪いものばっかりおいしく感じるんだろうと思うわけですよね。
お菓子、マジうまいじゃないですか。
お菓子ってそんなに栄養ないでしょ。
でも栄養価の高いものよりも、栄養価のそんなに高くないものの方がおいしかったりするでしょ。
あれって非常におかしな話じゃない。
人間に「生きる」っていう本能があるんだったら、より栄養価の高いものをいいと思わなきゃ変なんだけど、栄養価が低い方がおいしいと思えるのは、生存欲求をジャックするようなものがたくさんあるからだと思うんですよね。

そう考えた時に、「今を生きる」って言って生存本能みたいなものに従いすぎて生きると、商業的な罠にかかっちゃうっていうことが起きるんだなって、往々にしてその後輩を見てるとね。
その後輩をディスるつもりはないんだけどね。
後輩だってきちんと働いてるわけで、いいっちゃいいんだけど、それを極端にやって、多重債務者になっちゃったら大変だし。

そういう罠みたいなものが身のまわりにはたくさんあるから、単純に動物的に生きるのがいいよねとも言い難いなって思った上で、じゃあ、どういう生き方が、いわゆるマインドフルネス的というかさ、「今を生きる」っていう状態なのかなって考えた時に、自分に置き換えた時にね。
僕、こうやってしゃべってるのがすごい好きなんですよね。
しゃべってる状態っていうのが、僕の中ではひとつの「欲求を満たす行為」にもなっててね。
そんなこと言ったらさ、僕の欲求を満たす行為を他人に聞いてもらっているっていう、非常に盗人猛々しいラジオでお届けしているわけですけど。
しゃべるっていうのはね、ほんとに楽しいんですよ。

こういうのって、人それぞれあると思うんですよね。
僕はしゃべるのも楽しいし、聞くのも楽しいんですよ。
でも、食べるっていうのは、僕にとってはしゃべったり聞いたりすることほど大事なことじゃない。
踊るのも絵を描くのもそこまで大事じゃないし、字を書くのもそんなでもないですよね。
やっぱりおしゃべりが大事なんですよね。
それが僕にとっての、マインドフルネス的要素のひとつなんじゃないかなっていうふうに思ってて。
これが人それぞれあるんじゃないかなと思うんですよね。

友達がね、草むしりをしているのがすげえ楽しいんだと言っていて。
草むしりがなんで楽しいかっていうと、草を手に持って刈っているときの感触がたまらないんですって。
生きてるなって感じがするんだと。
それは、手で触るっていう触覚に、その人の「今を生きる」があるような気がしていて。
そういう人はたぶん、手作業的なことをやるとマインドフルネス的生き方ができるんじゃないか、とか。
あと、物を書くのが好きな人もいるからね。
物を書くのが好きな人っていうのは、物を書くっていうことに没頭している時が「今を生きる」ようなことができてね。

五感に根差すような、その人の欲求みたいなものを叶えてあげる生き方をすると、おのずと「今を生きられる」ようになっていかれるんじゃないかなっていう、そこにヒントがあるんじゃないかなって僕は思ってるんですよね。
絵を描くでもいいし、草むしりするでもいいし、おしゃべりするでもいいし。
絵画を見に行って、絵を見ているときの感覚がすごくいいんだよねっていうと、たぶん、視覚なんですよね。

触覚だったり、嗅覚だったり、味覚だったり、聴覚だったり、その人の感度の高い部分っていうのがあって、そこに忠実に生きていかれると、「今を生きる」っていうところに一歩近づけるんじゃないかなって。
もちろんそれだけじゃないと思うけどね、ヒントのうちのひとつがそこにあるんじゃないかな、なんていうふうに思ったので。

「今を生きる」っていうテーマにコメントがちょこちょこついてて、考えさせられたので、今回は人間にとって「今を生きる」とはなにかっていうことについて、少し考えてみました。
皆さんの思ったことも教えてほしいし、もっと掘り下げられるような気がするので、またなにか思ったら配信してみようかなと思います。

はい、ちょっと長くなってしまいましたが、今日はこんなところで終わりにしようかなと思います。
今回もありがとうございました。バイバイ。