今回は時事的なテーマで始めていきたいなと思うんですけど。
フランスで、ある14歳の少年が学校の授業中に逮捕されるっていうね、そういう出来事があったそうなんですね。
この少年はいじめを働いていたということで逮捕されたわけですけど、この出来事が非常に物議を醸しているのは、学校で、それも授業中に、ほかの生徒が見ている前で逮捕が行われたっていうところでね。
それがフランス国内でも、日本や他の国でも、その是非がいろいろ言われていると。
この少年が身柄を隠してどこかに逃げていたとかっていうわけではないので、わざわざ学校で逮捕に踏み切る必要もなかったわけですけども。
お家に帰った後で逮捕してもいいですし、下校中に逮捕してもいいですし、そのような目立つやり方、同級生が見ている中で逮捕に踏み切る必要は、なかったといえばなかったわけですけど。
政府当局の説明によると、いじめというのは非常に深刻で、なくしていかなければいけないものなので、こういう言い方じゃないけど、ある種見せしめ的にこういうことをしたんだっていう話なんですよね。
実際さ、見せしめっていうのは、社会の均衡を保つためによく使われることではありますよね。
全員を、全部を、取り締まることはできないじゃないですか。
例えば飲酒運転とか、放置自転車とかね、そういうものはなかなか根絶させるのが難しいので。
いや、例えばスピード違反とか一時停止の違反なんかは、一箇所に警察が構えてて、まあ、それを知らずに捕まるとかね。
隠れてるからね、警察官は。
違反をした人を取り締まるみたいな、あれも見せしめに近いというかさ。
それを防ぎたいんだったら、初めから警察官が見えてればやらないじゃんっていうこともあるんだけど、それじゃあ意味がなくて。
違反をしたら捕まるんだよっていうことを意思表示するためにそういうことをやっているっていう意味では、ある程度の見せしめ的なことっていうのはね、必要な部分もあるのかなって感じもありますよね。
僕がこの出来事を取り上げたのは、その是非について論じようと思っていたわけではないんですね。
ではなぜ取り上げたかっていうと、どっちでもあるからだと思うんですよね。
そういった見せしめ的なことをした方がいいのか、しない方がいいのかって、見せしめをしたことによるいい面もあるし、見せしめをしたことによる悪い面もあるわけですよね。
今回の例でいくと、自分のクラスメイトが、学校の教室の中で逮捕劇が行われて、それを見たことによる精神的なショックみたいなことを考えると、それはいかがなものかっていうことになるし。
さっきの見せしめ効果みたいなことを言うんであれば、そうした方が良かったんだってことになり、それは質的に違うものなので、どっちがいいっていうのを端的に言い切ることはできないと思うんです。
ただ、この事件を見ていて、改めてそのいじめっていうことについて、ちょっと考えさせられたんですけど。
僕ね、パッと見た時に勘違いしてたのは、この少年が学校内でいじめを働いていて、自分がまさにいじめをしている学校で捕まえられたのかと思ってたら、そうじゃなくて。
その少年がいじめ行為をしていたのはSNS上らしいんですよね。
SNSで高校生の人かなんかに罵倒をしたりして、いじめを働いていたみたいな、そういうことらしいんですよね。
ごめんなさい、細かく調べてはいないんですけど、学校での話じゃないらしいんですよ。
やっぱりそういうことってあるじゃない。
SNS上ですごく批判的な言葉を寄せるとかね、SNSって汚い言葉が横行したりもするじゃないですか。
学校でもいじめはある種付き物になっているというか、減らないわけですよね。
日本でもいじめの認知件数っていうのは増えているらしいですし。
これ、本質的にどういうことなのかなって。
僕は、SNSで起こる罵倒っていう行為も、学校で起こるいじめっていう行為も、言ってしまえば会社で起こるパワハラみたいなことも、根本としては一緒なのかなっていうふうに思うんですよね。
例えばさ、芸能人がなにかしでかした時に、SNSでその人のアカウントがいろいろなことをバーッと言われてね。
その人が病んでしまうとか、自分の命を絶ってしまうみたいなことも事件としてあったりしてね。
これが非常に根が深いと思うのは、こういったことをする人がすごい悪い人なのかっていうと、おそらく、そういうわけでもないっていうところなんですよね。
SNSで寄ってたかっていろんなこと言う人を、一人ひとり、どういう人なのか調べてみたら、おそらくはごくごく普通の人だと思うんですよ。
違う人もいるかもしれないけどね。
で、学校でいじめに加担する人が、どこに行ってもいじめに加担する人なのかっていうと、そういうわけでもないと思うんですよね。
だって、あるじゃないですか。
小学校でいじめに加担していた人が、例えば中学校に入ったらいじめられる子になっちゃうってこともあったりして。
だから、常に自分の立場が同じっていうよりは、立場っていうのは常に変わるわけですよね。
これはなにかっていうと、やっぱり集団っていうものの力だろうなって思うんですよ。
集団の中での文化としてそれが根付いてしまうと、いじめっていうのがエスカレートして定着してしまう、そういったことが起きるんじゃないかなと思うんですよね。
別にその文化が悪いって言うんじゃないですよ。
それがいい方に行けばいいものが根付くんですけど、そのいじめの構造っていうのが一度成り立ってしまうと、それはエスカレートすることはあっても、なくなっていくっていうのは非常に難しいっていうことがあるんだろうなって思うんです。
昔、ホロコーストってあったじゃないですか。
ドイツでさ、ユダヤ人の強制収容所ができた時に、そこで大量のユダヤ人が亡くなったというか、殺されてしまったっていうことがあってね。
その中で、アイヒマンっていう、ホロコーストの中心的な人物がいるんですけど。
この人が大量虐殺の中で重要な位置に立っていたっていう、そういう話があって。
じゃ、この人がすごい悪人だったかっていうと、悪人どころか、ごく平凡な役人体質の人だったらしいんですよね。
非常に愛妻家だったりして、だから普通の人だったらしいんですよ。
普通の人だったんだけど、人を大量に殺してしまうっていうことをごくごく普通に行っていたっていう、そういうことがあったりして。
これも集団の持つ力だと思うんですよね。
そういったことが当たり前だっていう中に入ってしまうと、人は自然とそれに加担してしまうっていうね。
おそらく、その日常がなくなって、普通のお役所仕事みたいな職場に入っていたら、その人は普通にお役所仕事の中で働いていくんであって、別にその人が人殺しの遺伝子があるみたいなね、そういう話でもないような気がするんですね。
こういったことって防いだほうがいいじゃないですか。
集団の中で良くないことが起きるっていうのは防いだほうがいいですけど、だからといって集団を作らないっていうわけにもいかないですよね。
人間っていうのは集団で生きるものではあるので、社会というものはあった方がいいし。
学校もなくなって、会社もなくなって、国もなくなって、地方自治体もなくなってしまったら、人間って生きていけないわけで。
いろんなグループを作って生きるってことは必要になってくるんだけど、なにが不健全かって、まずそのグループっていうものが小規模化していて、それが閉鎖的になってしまうっていうのが非常に良くないと思うんですよね。
僕自身、すごくコミュニティというものに興味があって、自分自身もコミュニティの運営みたいなものに携わっていたこともあるし、自分がオンラインサロンみたいなところに入ってたこともあるんだけど、そこがね、風通しが良くないと不健康になっていくんですよね。
その風通しっていうのは、コミュニティ内の風通しっていうことだけじゃなくて、コミュニティとコミュニティの外との風通しがない、非常に閉鎖的な、外側から内側がよく見えなくて、内側で固まってしまうがゆえに外側の風景もよく見えないみたいな状態になってしまうと、不健康なことが起こりやすいんですよね。
集団の「文化」を見直す余地があるんじゃないか、みたいなことが内側で起こらなくなってしまって、どんどん前衛化してしまうというか、そういったことは過去の歴史を見てもいろいろあると思うんですよね。
だから、大きな意味での緩やかな文化みたいなものはあった方がいいんだけども、それがちっちゃくぎゅっと固まってしまうと、さっき言ったような「不健康なことが起こる」ってことで言うとね。
学校っていう枠組みがあって、学校の中で校則っていう大きなルールはあった方がいいと思うし、学校の中でそのルールに基づいた文化があるっていうのはすごく大事なことだし、それを守っていく必要があると思うんですよね。
ただ、その中のひとつの「クラス」っていう枠組みにすごく特色があって、集団の力が強くなりすぎてしまうと、いじめとか、ハブられちゃうとかね、そういったことが起こりやすいなと思うんですよ。
僕ね、今でも忘れもしないんだけど、小学校1、2年生の時に、1年2組だけがめちゃくちゃ怖かったんですよ。
用があって1年2組のドアをノックすると、いきなりその怖い人たちがいっぱい出てきて、「なんだよ」みたいにすごんでくるわけですよ。
そのクラスだけ。
で、「俺たちのとこに入ってくんな感」出して、こっちは用があってノックしただけなのに、めちゃくちゃ怒られるみたいなね。
とにかく1年2組は怖いっていうのがあって、その1年2組が怖い。
クラス替えがなかったから2年間。
3、4年でまたクラス替えがあるわけだけど、1年2組だった生徒がすごい怖い人かっていうと、クラスがバラバラになると、その人たち一人ひとりはごく普通な人なんですよ。
全然怖くない。
すごんでた人も全然怖くないんですよ。
だから、その人は1年2組にいると怖いけど、3年4組になった途端に怖くなくなるわけですよね。
これが本質なんじゃないかなと思うんですよね。
僕の中では、例えばですけど、あんまり教育のことに触れたくないんだけど。
クラスっていうのがある程度柔軟になってた方がいいような気がするんですよね。
国語の時間はこのクラスだけど、算数の時間は別クラスみたいな、クラスっていうのがあんまり決まっちゃってなくてね。
昔の寺子屋みたいな、1年生から6年生まで一緒に授業するみたいなやつね。
こういうのってね、文部科学省が決めたシステム的に「それは無理だよ」ってことはあるのかもしれないけど、あんまりクラスっていうのはね、クラスに限らず、部署でもそうですよね。
会社には部署っていうのが必要なんだけど、部署っていう単位で固定化されてしまうと、その部署の文化がすごく強くなって。
会社全体では普通の、柔らかい会社なのに、「あの部署だけはめちゃくちゃギスギスして、なんだか家長制度的だな」みたいなさ、そういうこともあったりするじゃないですか。
でも、そこが風通しがいいと、一箇所の部署だけそんな文化になるってことはないからね。
やっぱり出入り口の、風通しみたいなのはすごく必要だなと思いますね。
僕はコミュニティというものに興味があるし、作っていきたいなと思うけども、やっぱり大切にしていきたいのは、この風通しっていう部分ですよね。
例えばグループを10人で作ったとして、「この10人はもうグループで、後から入ってくる人なんか許されちゃいけないんだ」みたいなさ。
そんな感じじゃダメで、出入りがある程度自由である必要がありますよね。
でも、「いつ出てもいいよ」「いつ入ってもいいよ」っていうと、それはそれで文化みたいなものが失われてしまって、コミュニティとして成り立たなくなるので、ある程度の段差みたいなものはあるけど、壁にはしない、みたいなね。
そういったものは必要なんだろうなっていうことを、今回のニュースを見て思いましたね。
そのニュースの是非に関しては言い難い部分はあるんですが、本質的なところはそういうことなんだなと思って、今回そういうテーマで話をさせていただきました。
そんなところで終わりにしようかなと思います。
今回もありがとうございました。バイバイ。