オンライン喫茶 4th place
オンライン喫茶しゃびのオフなひととき(テキスト)

520.あなたにとっての「ケアの時間」とは?

ふだん仕事をしていたり、お芝居していたり、いろいろやってるんですけど、それ以外のいわゆるオフの時間っていうのは、けっこう友人とかとおしゃべりをすることに時間を使ってるんですね。
僕はそういう時間がすごく好きで、カフェに行ってゆっくりおしゃべりをするっていうことを大事にしてるんです。

でね、1回行くとけっこう長い時間しゃべって、3、4時間は超えてるというか、5、6時間しゃべってることもあるんですけど。
僕は人としゃべるのがすごい好きなんですよね。
だけど、誰でもいいっていうことでは決してなくて。
僕は自分がしゃべりたい人、一緒に話をしたい人の範囲がけっこう狭いんですよ。
「こういう人と一緒にしゃべりたいよ」っていうのはけっこうはっきりしていて。
じゃあちょっとその話をしようかな。
この話って前の回でしたことあるのかな。
かぶってたら申し訳ないんですけど。

普段仕事をしていたり、活動していたりするときには、僕は人をあまり問わないんですよね。
こういう人とじゃないと一緒にやりたくない、みたいなのはそんなになくて。
この人はちょっと難しいなっていうのはあるよ。
一緒に活動するときに、この人がいることで活動の進みを止めてしまうっていうタイプの人っていて、そういう人とは僕は一緒に活動したくないってのはあるけど。
「基本的にこういう人は無理」みたいなことはあっても、それ以外の人は、自分と性格が合わなかろうが、考え方が違っていようが、思考の仕組みが違っていようが、一緒にうまくできる自信もあるし、まあまあできるんですよ。
ストレスなくね。
ただ、オフの時にお話をする、自分がリラックスして誰かとしゃべるっていう時にはかなり限定したいタイプなんですよ。

それは一言で言うと、自分と抽象度の近い人、抽象度がある程度合わせられる人の範囲じゃないと、自分が話していてストレスになっちゃうんですよね。
例えば、「こういうふうに思うんだよね」みたいなことを言った時に浅く解釈されると、話がどんどん全然深まっていかない感じがあって。
自分は話していて楽しくないし、逆になんでもかんでもすごい抽象的にばっかり話されちゃっても、今なんの話をしているのかっていうのがぼやけてしまうので、その具体と抽象のバランスの、そのチューニングの仕方っていうのがある程度合ってる人じゃないと、僕が会話を楽しめないっていうのがあるから。
自分がオフの時にリラックスしてしゃべりたいっていう目的の場合って、僕はかなり誘う人間を制限してるところがあるんですよね。
それが自分のメンタルの保ち方だったりするんですよ。

ふだんいろいろ活動してると「伝わらないな」って。
そういうことが言いたいんじゃないんだけどな、みたいなことっていうのが多々あるので。
でもそれは、いろんな人が一緒に活動している以上は、仕事であってもそうであっても、それは仕方のないことで。
その人の今までの経験もあるし、脳みその仕組みもあるし、論理的に客観的になにかを解釈する力がどれだけあるのか、感覚がどれだけ研ぎ澄まされているのか、みたいなことっていろいろあるし。
あとは性格とか、どういうことに傷ついてきたのかによって人の認知っていうのはかなり差があるので、そこに関してはしゃあないなと思う。
しゃあないなっていうか、自分も相手から「なんか通じないな」って思われてるかもしれないし、自分もそういうことが起きうるっていうのはしゃあないなって思うんだけれども。

自分が、ケアに当てたい時ですよね。
自分の中の、回復に当てたい時っていうのは。
そこはやっぱりストレスなくいきたいなっていうのがあるから、自分の中で、一言で言うと、話の合う人を選んで会うようにしてるんですよね。
人それぞれ、自分のケアの時間をなにに使うのかってあると思うんですけどね。
ひとりで過ごすっていうことに自分のケアを当ててる人もいるじゃないですか。
本を読んだりね。
自分は本を読むのが嫌いじゃないんだけど、積極的に読む方じゃないから、やっぱり人と話すことでリラックスしてるんだろうなって思いますね。

おととい、友達と群馬の桐生っていうところに行ってね、しばらくおしゃべりをしてたんだけど。
その子は自分の中ではすごく波長が合うなっていうふうに思ってて。
よく一緒にごはんを食べたりするんだけどね。

なにをもって「自分と気が合う」って感じるのか。
考え方が違うとか、考え方が似ているっていうのは、あまり自分の中の「気が合う、気が合わない」基準とは関係がないんですよね。
考え方は全然違っていいし、違ってた方が面白いんだけど、話をしているときの抽象度のチューニングが違うと、こっちは「なんの話をしてるのかよくわかんねえな」ってなってたり、こっちが話してることを相手はちゃんと捉えてくれてなさそうだなっていうふうに感じる。
そういうモヤモヤ感とか、僕はちょっとね、苦手なんですよね。
「こないだ、こんなことがあってさ」って言って、相手がこういうことで、自分のこと怒ってきて、って。
「怒った原因って、突き詰めるとこういうことだと思うんだよね」って話した時に、「それわかる」って言って、「そういう人っているよね、私も嫌いでさ」みたいな話に落ち着けられちゃうと、「そういう人っているよね」の中身について自分は話したいのに「ムカつくよね」みたいな。
なにかを十把ひとからげにして「ムカつくよね」って話の共感性をこっちが求めてるわけじゃないから、なんかちょっと、その話はつまんねえなってなっちゃうんですよ。

自分はなにかをグループ分けして嫌だなとかって思いたいわけではなくて、基本的に嫌な人っていないと思ってるから。
自分が嫌だと思うことになにか原因があるし、相手が嫌なことをしてきているんであれば、そこに根っこがあって、その根っこの部分がアウトプットに繋がってるってだけの、この組み合わせの問題だと思ってるので、その組み合わせの部分を自分は知りたい。
そのことによって自分は嫌な気持ちに幾分ならなくなるかもしれないし、相手を理解することにつながるかもしれないから、自分はできるだけそこはその絡まった糸ってのは解きほぐしていきたいんだけど、解きほぐしていきたい人ばかりではないんですよね。
「嫌なやついるよね」とか「悪いやついるよね」みたいなことで終わっちゃう人もけっこういて、それが悪いってわけではないけど、自分はそういう理解の仕方が好きなわけでもないし、そういう理解の仕方にあんまり関心がないから、ふだん人とコミュニケーションを取るときは、そういう思考のプロセスの人とはあんまり積極的におしゃべりの時間を使いたくないなっていう、そういうことですよね。

だから、「自分と気が合う人」みたいなことで話していたけどね。
抽象度っていうことで言うと、自分のケアの時間にどういう時間を充てたいかっていうことを深く考察するっていうのは大事かもしれないよね。
例えば、僕が人とおしゃべりするのが好きなんだと。
自分がリラックスするときは人とおしゃべりをするといいんだって思い込んでると、たまに「全然リラックスできなかったな、リラックスできたりできなかったりするな」みたいになるじゃないですか。
「人とおしゃべりをすることがリラックスするんだ」とだけ思ってたら、そうじゃなくて。
こういう人と一緒にしゃべりたいんだ、こういう人っていうのはどういうことなんだってわかってると、自分はちゃんとリラックスタイムにリラックスできるじゃないですか。

「休みの日はひとりで過ごすのが好きなんです、自分は基本的にはそんなに社交的ではないので」みたいなことでも、ひとりで過ごしてればなんでもいいってわけでもないじゃないですか。
ひとりでなにかを考えるのが好き。
いつもは自分の考えっていうのが人に伝わらないから、自分ひとりで考えて、自分で完結させられる時間が、自分にとっては自分を癒す時間なんだ。
だからそのきっかけとして、本を読んで、本と対話するんだ。
っていうことで、ひとりの時間を読書に充てたいってわかってればさ、読む本の内容もおのずと決まるし、本を読むのに時間を充てたらいいんだってこともわかるけど。
そこを「ひとりでいるのが好きなんだ」ってだけにすると、疲れてるからダラダラYouTubeのショート動画でも見るか、ってなって。
YouTubeのショート動画ってちょっと興奮を誘うから、1日ずっとひとりでいたけど、翌日あんまり疲れが回復してないな、あんなに休んでたんだけどな、ってことにもなるかもしれない。
それは、自分のケアにしっかり充てられていなかったからっていうことになるので、自分のケアの時間にどういう時間の費やし方をすると回復になるのか、自分は充足した時間を過ごせたなって感じられるのかっていうのは、さっき「抽象」っていう話はしたけど、ある程度抽象化しておいた方がいいような気が今しゃべりながらしたので、今日はそんな話をしました。

今日はそんなところで、終わりにしようかなと思います。
今回もありがとうございました。バイバイ。