寒い日が続いてね、お家にいてもエアコンが必須になってくると思うんですけど、どうしてもエアコンつけっぱなしにしてると乾燥して良くないですね。
体も乾燥するし。
今エアコンつけながらしゃべってるんだけど、喉がちょっとカラッとしてしゃべりづらいっていうかね。
やっぱり日本はね、夏は湿気がすごくて、冬はめちゃくちゃ乾燥するので、湿度っていうのが悩ましい風土ですよね。
最近は加湿器とかそういったものも色々進んできているので、文明の力に頼りながら生きていくのがいいのかな、なんていうふうに思いながら。
今ちょうどしゃべり始めて、結構声ガラガラしてるなと思ったら、たぶんエアコンで乾燥してるんですよね。
そんなわけでね、ちょっと聞きづらいところもあるかなと思うんですけど、そのまましゃべり始めたいなと思ってます。
この間ね、YouTubeを見ていたら、幻冬舎の箕輪さんっているじゃないですか。
有名な編集者なんですけど、「これからは自己理解の時代だよね」みたいな話をしていたんですね。自己理解。
自分のことを自分はどのように思っているんだろう。
どういう考え方なんだろう。
なにをしていたら楽しいんだろう。
どういう人間なんだろうということについて考えて、理解をしていくっていうね。
これからはそういう時代だと箕輪さんは言うんですけど、そもそも、いつの時代であっても、人は自分でしか生きられないわけですから、自己理解っていうのは大切だっていうふうに思うんですよね。
でも、その自己理解の大切さ、具合が時代によって変わってくるっていうのは、すごく考察として面白いなっていうふうに思ってて。
これって順序の問題じゃないかなって思ったんですよね。
個人っていうのを先に考えるか、社会っていうのを先に考えるのかっていうのって、あくまで「人間っていうのは個人ではあるけれども、社会にはある程度参加をしなければいけない」っていうのは前提としてあるわけで、じゃあ、どっちを先に考えるのかっていうのが、時代の流れの中で変わっていくんじゃないかなっていうふうに思うんですよね。
要は、時代によって、個人っていうところから入るのか、社会っていうところから入るのかっていうのが変わってくるっていうね。
この間、哲学をね、色々調べたりしていたんですけれども、哲学も結構面白いんですよね。
哲学って言葉の学問なので、ある時に誰かが言っていたことを、後になってそれを批判して、「いや、こういうことなんじゃないか」なんて言って、どんどん歴史が紡がれていくようなところが哲学にはあるんですけれども。
元々、第2次世界大戦前は、いわゆる近代哲学みたいな言い方されますけど、どちらかというと社会っていうものを前提とした上で個人があるっていう考え方が強かったようなんですね。
僕、哲学にすごく詳しいわけじゃないから、この辺もっと調べたらね、詳しくお話できると思うんですけど。
で、そういった近代哲学の時代があって、当時はどちらかというと、国を強くしていくっていうのが思想としては強かったわけじゃないですか。
そういうこともあって、第1次世界大戦とか第2次世界大戦とかっていう争いになっていくと、産業革命があって、生産力っていうのが先進国を中心にどんどん上がってきて、で、そんな中で、お互いに争いが起きて。
第1次、第2次世界大戦が起きてっていう流れが歴史の中ではあったと思うんですけれども、そんな中で、哲学っていうのも社会を中心に考える。
まず社会があって、個人があるんだっていう考え方が強くなっていったみたいなんですよね。
しかし第2次世界大戦が起きて、すごく凄惨なことになっていく中で、「いや、そうじゃないんじゃないか」と。
あくまで個人っていうものがあって、個人がたまたま世界に投げ出された、それが人間の人生なんじゃないかっていう考え方に少しずつ変わっていくっていうのが、哲学の中でムーブメントとしてあったそうなんですよね。
これが実存主義っていう考え方みたいなんですよね。
サルトルとかの時代ですよね。
社会という枠組みの中で人間が生きていくとこういうことになるんだっていう、その悲哀も込めて、個人っていうものを大切にしようっていう考え方が出てきたんだろうなっていうふうに思うんですよね。
「実存主義はどういう考え方か」みたいな話になっちゃうと、またね、話長くなっちゃうから一旦置いておくとして。
そこから、例えば日本だったりすると、戦後に高度経済成長期っていうのが出てきて、どんどん景気が良くなっていくわけじゃないですか。
景気が良くなっていくっていうのは、個人ひとりの力というよりも、企業がどんどん儲かっていくっていう流れの中で、お金の循環が良くなっていって、人が豊かになっていくっていう時代ですよね。
そういった中でまた社会っていうのがあって、社会があるからこそ個人なんじゃないかっていう見方が強くなっていったようなんですよ。
哲学の世界でもね。
それがいわゆる構造主義って呼ばれる動きになっていくそうなんです。
僕は別に哲学の話を今したいわけではないので、なにが言いたいかっていうと、社会がどういう状態になっているかによって、社会から個人っていうところにスポットライトを当てるのか、個人から社会っていうものに対してスポットライトを当てるのかが変わってくるっていうのが、哲学の社会で、世界でもあったんだろうなっていうのを、なんとなく僕はその時感じたんですよね。
じゃあ今はどうかって言った時に、さっきの箕輪さんの話に戻るんですけど、自己理解っていうのは、基本的に自分から入ってるわけですよね。
今の時代、これからの時代っていうのは、特に個人っていう側から始まって、社会っていうものを見ていく時代になるんだろうなと。
そういう時代が今後どんどん強くなっていくんじゃないかっていうことなんだと思うんですよね。
確かにそうだなっていうふうには思うんですけれども、じゃあ社会ってなんだろうってなった時に、近代で言う社会っていうのは、国家っていうところが強かったと思うんですよね。
「国家の一員としての人間」っていうような意味合いが強くて。
戦後になってくると、国家っていうものも強く働いてはいるものの、いわゆる企業とかよりもうちょっとマクロな意味での「社会」っていうものと「個人」っていうものの関係性が問われてきたのが、高度経済成長期、日本でいうとね、以降の日本なのかななんていうふうに思った時に、今で言う「社会」ってなんなんだろうなってちょっと思うんですよね。
例えば、「個人」っていうのがたまたま生まれてきたとして、生まれてきた時にはどういう目的があるのかとか、そんなことはわからないですよね。
今だってさ、生きてる今だって、どういう目的を持って人が生まれてきたのかなんてわからないじゃないですか。
それは自分で、「自分は人生をかけてこういうことを成し遂げていくんだろうな」みたいなことをなんとなく決めるしかないだけであって。
たまたま生まれてきたとして、一番最初にね、両親とか家族っていう社会の中に入って生活して、その影響を強く受けるわけで、その後に学校があって、会社があって、より大きな枠組みとして国っていうのがあるっていうのは昔も今も変わらないとは思うんですけれども、これからの時代っていうのは、どっちかっていうと、よりミクロな意味での「社会」と「個人」との関係性っていうものを考えていく時代になるんじゃないかなっていうふうに、僕はなんとなく感じてるんですよね。
近代っていうのが国で、戦後っていうのが、例えば企業みたいなものが社会というところになるのであれば、もっと狭い、家族やパートナーや自分の身近で仲良くしている人であったり、会社では自分の周囲の部署であったりとか、自分の目が行き届く、知っている人との人間関係と自分っていうものに向き合うことによって、いかに自分がより良く人生を歩んでいけるのかっていうところを見つめ直していく時代になっていくんじゃないのかな。
時代を経るごとに、社会っていうのが少しずつミクロになっていくような気もするんですよね。
もちろん国はあるし、会社はあるし。
今で言うとamazonとかさ、めちゃくちゃ力を持った大企業っていうものがあって。
もちろん社会を動かしていく上では、そういったマクロなコミュニティっていうものも依然力があるとは思うんですけど。
人間が生きていく上で、どうしたらより良く生きられるだろうってことを考えるときに、身近な人間関係っていうもの、まず「自分はどのような人間なんだろう」という、箕輪さんの言う通り、自己理解っていうところから、個人っていうところから始まって、そこからより身近な人間関係みたいなところに目を向けるっていうのが大事な時代になってくるんじゃないかなっていうのを、箕輪さんの話だったりとか、哲学の歴史だったりとかを紐解いてみた時に感じるのでね、うん。
僕がそう感じたっていうだけですけれども、もしかしたらそういう時代になっていくのかもしれないな、なんてことを思いながら生きていただけると、内省の材料になるんじゃないかな、なんて思ったのでね、今日はそういうお話をさせていただきました。
なんだかんだ言ってね、時代がどうのこうのっていうのももちろんありますけれども、身近な人との人間関係っていうのが、やっぱりよっぽど難しいんですよね。
国がどうのこうのとか、会社がどうのこうのっていうことに比べて、個人と個人ってなってくると、より細かく相手を見てしまうので、俯瞰して見づらくなっちゃいますよね。
特に、例えば配偶者とかさ、恋人ってなってくると、大まかにその人を見るっていうよりは、細かくひとつひとつのところが気になってきちゃって、それが致命的な欠陥であるようにも思えてしまったりして。
だから、狭いコミュニティと自分との関係性について考えていくんだけども、そのちっちゃいコミュニティとかちっちゃい人間関係のことについて、あまり狭い視野にならずに、広い視野で見られるようになっていくと、人間は少しずつ生きやすくなっていくんじゃないかなっていうふうに、なんとなく思うんですよね。
僕もそういうふうにできるようになりたいなって思います。
ちょっとね、今回ややこしい話になってしまったような気がしますけれども、少しでも参考になるようなことがあったら嬉しいです。
ということで、今回のお話を終わりにしたいなと思います。
今回もありがとうございました。バイバイ。