オンライン喫茶 4th place
オンライン喫茶しゃびのオフなひととき(テキスト)

488.責任とは何か?

今年に入って週3回の配信に変えたんですけど、僕にとってはこのぐらいのペースが今の僕にはいいかなっていう感じがしますね。
週3日だとね、全くストレスがない感じです。
週7だとね、結構気合い入れてがっつり時間取らないとな、みたいな気分があるんだけれども、週7回録るのもすごく難しくはないけど、週3日だとね、すごく自分の中で気楽に、すごく好きな習慣として続けられるなっていうのがあるので、しばらく週3日でやってみようかなっていうふうに思ってます。

今日お話したいのは、僕が好きな映画のセリフがあって、もしかしたらもう500回近くやってるから、この言葉を一回ぐらい取り上げたことがあるかなっていうふうに思うんですけど。
だから、もしかしたら聞いたことのある人もいるかもしれないけど、もう一回取り上げてみます。
もしかしたら、初めてかもしれない。
ジャン=リュック・ゴダール監督の「女と男のいる舗道」という映画の中に出てくるセリフ、読み上げてみますね。

私は全てに責任があると思う。
自由だから。

手を挙げるのも私の責任。
右を向くのも私の責任。
不幸になるのも私の責任。
タバコを吸うのも私の責任。
目をつぶるのも私の責任。
責任を忘れるのも私の責任。
逃げたいと思うのもそうだと思う。

全てが素敵なのよ。
素敵だと思えばいいのよ。
あるがままに思えばいいのよ。

お皿はお皿、人間は人間、人生は人生。

(映画「女と男のいる舗道」より引用)

こういうセリフが「女と男のいる舗道」という映画の中に出てきて、この映画自体がね、僕はすごく好きな映画なので、よかったらぜひ。
サブスクなんかで配信しているんじゃないかなと思うので。
ただ、ゴダールってね、結構とっつきにくいなって思う方も多いので、試しに見てくださいっていう感じなんだけど。

この「責任」っていう言葉。
20年ぐらい前かな。
もうちょっと前なのかな。
「自己責任」っていう言葉がすごく流行った時期があったんですよね。
たしか、小泉首相かな。
ちょっと僕もね、忘れちゃったんだけどね。
時の首相が自己責任っていう言葉を使ったんですよね、たしか。(※1
ある無謀な行為をした若者がいて、その人に対して、自己責任という言い方をして、そのあと、その自己責任論みたいなのがね、取り沙汰された時期があったりして。

この「責任」っていう言葉って、自己責任っていう言い方をすると、他者に向けて「それってもう自己責任だからね」みたいな感じで表現する言葉のように見えちゃうんだけれども。
僕がこの、アンナ・カリーナという女優のセリフなんだけど、責任って、僕はこの言葉がすごくいいなって思ったのは、この「責任」っていうのが自分に向けられているからなんですよね。

責任って、あんまり僕は他者に向けて言う言葉じゃないんじゃないかなって思ってて。
あくまで責任っていうのは、自分が自分に対して課すものであって、他人に「責任」って言うのはあんまりいいことじゃないんじゃないかなっていうふうに思うんですよ。
それは、誰かの意思で相手を縛ってしまってはいけないような気がするから、僕はあんまり自己責任っていう言葉は好きじゃないんですよね。
自分に対して自己責任と思ってるんだったらいいんだけど、大体のケースって、自己責任という言葉って他者に向けて発せられるから。
僕は、それはあんまりやらない方がいいんじゃないかなっていうふうに思うかな。

これって、要は自分っていうのがいてね、環境っていうのがあるわけじゃないですか。
環境って、自分で選んだ環境もあれば、選べない環境もありますよね。
例えば、自分が生まれてきて、どういう親の元で生まれてくるのかっていうのは、スピリチュアルなことをちょっと置いておけば、選べないですよね。
もう生まれちゃうわけで。
どういう小学校に通うのかも、小学生の頃に自分で選べるってあんまりないよねっていうのはあるけれども、会社とかはさ、自分で選んだり、いろいろある中で、例えば自分がいる環境が嫌だなっていうふうに思ったとするじゃないですか。
自分が今いる小学校のクラスとか、会社とか、夫婦関係だったりとか、友達関係、上司、そういった自分の身の回りの環境が嫌だなっていうふうに思った時に、自分が嫌だなっていうことから解放される方法は、ふたつしかないと思うんですよ。

それは、自分を変えるか、環境を変えるか、どっちかだと思うんですね。
で、そのどっちも可能だと思うんですよ。
自分を変えることもできるし、環境を変えることもできる。
環境を変えるっていうのは、その環境にいるのをやめて、別の環境に行くこともできるし、環境そのものを変えてしまうこともできると思うんですね。
例えば、自分がいる会社の部署が、すごく自分にとって居心地が悪かったとしたら、会社の部署の環境を変えてしまうっていうこともできるし、会社を辞めて、別の会社に就職して、自分のいる環境を変えることもできると思うんです。

ただ、環境を変えることなく、「自分がいる環境」を変えるって、今の話の中で最も難しいことだと思うんですよ。
もう言ってしまえば、これって政治に参加して世直しをするのに近いものがあって。
世の中を変えようと思ったら国会議員に立候補して、国政の中で発言をして、国を自分のいいと思うものに変えようっていうのはものすごくいい志だと思うけれども、それってものすごい大変なことじゃないですか。
選挙に受かったところですぐ変えられるわけじゃないですよね。
ほかの議員さんとかがいっぱいいて、そこには利権がめちゃくちゃあったりするわけで、なかなか変えるのは難しい。
そんなにスケールの大きい話じゃなかったとしても、会社にはいろんな力学が働いているので、会社の風土を変えるっていうのはものすごくハードルの高いことだと思うんですよね。
それはもう軽く立候補するのに近いぐらいハードルが高いことだと思うんですよ。

だから、自分の環境っていうのは、例えば家族とかだったりするとさ、自分の身の回りにいる子供だったり配偶者だったり、会社だったら部署だったり、参加している人数っていうのはすごく大きく変わるんだけど、それが少ない人数で構成されたとしても、そこそこの人数いたとしても、環境を変えるのが難しいっていうこと自体はあんまり変わらないって僕は思うんですよね。
それだったら自分が変わるか、その環境の中に身を置くことをやめた方がよほど現実的だっていうふうに僕は思っていて。

僕の好きなセリフっていうのは、そういうことが表現されているなっていうふうに思うんですよ。
「素敵だと思えばいいのよ」っていうセリフがあるんだけども、僕はここに関しては別に素敵だと、全てのものに関して思う必要はないっていうふうに思ってて。
素敵「じゃない」って思うことも含めて、自分の責任だっていう上でやっていれば、身の周りのことがなにもかも素敵だって思える必要はないし。
素敵だなって思えることが多い方が幸せだと思うけど、人間そんなに都合のいいようにできてないから、なんでもかんでも素敵だってふうには思えないと思うんですよね。
嫌だなと思うことも絶対に起きてくるし。

その時に「自分の身の回りの環境が良くないから、自分は不幸なんだ」っていうふうに思うことが、自分の中では一番不幸なことだと思うんですよね。
変えられないものを嘆いていることほど不幸なことはないわけじゃないですか。
そしたら、そこでずっと不幸な気持ちになり続けなければならないからね。
その時に大事なのはやっぱりね、自立だっていうふうに思うんですよ。

会社の中で、自分はこういう振る舞いしかしちゃいけないとか、こういうふうに思わなければいけない、みたいな先入観で流されてしまうと、その空間にいる自分っていうのは居心地の悪いままなんだけれども。
どういうふうにすると自分は居心地よくいられるんだろう。
自分は実際どういう人間で、どうすると居心地よく過ごせて、どうすると嫌だなって思うのか。
そういうことをとことん内省した上で、自分がどういう人間なのかっていうのをある程度自分の中で理解して、どういうふうに振る舞うのが自分にとって一番生き生きするし、新鮮で、楽しいのか幸せなのか、っていうのを持った上で社会とか環境とかに接するようにすれば、自分っていうのを持ってるわけだからね、あんまり社会に飲み込まれないで済むんじゃないかなっていうふうに思うんですよ。

それは我を通すっていうことではなくて。
自分はこうしたいんだ、こういうふうにいたら心地が良いんだ、こういうプレーがしたいんだ、みたいなものを思った上で、じゃあ自分がいる環境の中でどの程度自分が出せるのかな、どの程度その環境のルールに従わなければいけないのかなっていう一致点を見出して、その環境にいたときにある程度居心地よく過ごせるっていうのが、人間として自然なんじゃないかなと思うんですよね。
好き勝手振る舞っていいってことが自然なんじゃなくて、折り合いがつけられているっていうのが、僕にとってはすごく自然な環境の中での身の投じ方だっていうふうに思っているんですよね。

自分を出せる部分が多ければ多いほど、居心地の良さっていうのは増えていくんだろうけど、どこにいてもそういうふうにできるわけはなくて。
でも、自分が死んでしまうぐらい、全てにおいて受け入れなければいけないようなことってほとんどの場合ないと思っていて。
こういうふうにしたいんだ、こういう自分でありたいんだっていうのが自分の中で確固として築かれていないから、周りの影響を受けすぎてしまって、自分を殺してしまうみたいな、そんなことが起こるんじゃないかなっていうふうに思うので。
そういった意味でも、自分の責任の元で、どういう環境にいてもある程度は頑固に自分を通すし、でも相手にも通したいものがあるわけだから、その一致点を探れるようにいられるっていうのが、いい生き方なんじゃないかなって思うんですよね、僕は。

居心地のいい場所とか、居場所みたいなものって、「ここが私の居場所なんだ」みたいなのって、あんまりないような気がしていて。
「ここにいる時だけはありのままの私でいられる」みたいなものって、全くないかどうかっていうとあるのかもしれないけど、そういうものを目指しすぎると、そのほかがどんどん不幸な場所に見えてしまって、それってバランス悪いんじゃないかなと思うんですよね。

どこにいてもある程度っていうのが、うん、最適な生き方なんじゃないかな。
それにはやっぱり、自分に対してなにをするにも、自分の中には責任があるっていうのをわかった上で、自分っていうのはどういうものなのか、どういう人間なのか、どういうふうにされると嬉しいのか、どういうふうにしていたいのかっていうことを、日々見つめ直すっていうところなんじゃないかな、なんてね、思います。

今日の話は抽象的なので、僕も伝わりきってるかわからないなっていうふうに思いますが、少しでも届くところがあったらいいな、なんていうふうに思います。

はい、今日は、そんなところで終わりにしようかなと思います。
今回もありがとうございました。バイバイ。