今回ね、ちょっと抽象的な話をしようかなと思ってて。
まあね、月曜日の朝から抽象的な話っていうのはどうなのかなっていうのがありつつ、だから、もし伝わらなかったら申し訳ないなと思うんですが。
共同体っていう言葉があるじゃないですか。
たぶん共同体って、今で言うとコミュニティっていう言葉の方がしっくりくる人が多いんじゃないかなと思うんですよね。
コミュニティって昨今大事だよねって言われることの多いワードでもあるんでね。
オンラインサロンとか、オンラインコミュニティって言ったり、元々は市区町村とか同じ町の人たち、ひとつの町の人たちのことをコミュニティって言ったりしますよね。
国ぐらいまで行ってしまうと、コミュニティっていう言い方はしないのかもしれないけど、ある程度の小さな集団をひとまとまりにして、コミュニティっていう言い方をしますよね。
それは、学校とか、学校の中のクラスとか、会社とか、そういったことも含めてだと思うんですけど。
コミュニティと共同体っていうのは、基本的には同義語、同じ意味の言葉として使われることが多いなって思うんだけれども、ただ、コミュニティっていう言い方をすると、どうしても英語なので、コミュニティという言葉からイメージできるものが少なくなるとは思うんですよね。
語感からというか、日本語じゃないからさ。
でも、「共同体」っていうふうに漢字で書くと、なんかすごい興味深いなっていうところがあって。
なにが興味深いかっていうと、「共同」でありながら「体」なわけじゃないですか。
共同って、みんなで使うみたいな意味合いがあるじゃないですか。
例えば公園とかさ、公園をみんなで共同で使いましょうね、仲良く譲り合いながら使いましょうねっていう、そういうことだったりしますよね。
公共のものっていうのは共同のものが多いですよね。
図書館とか。
図書館も、みんなで同じ本を借りたら期限内に返してさ、で、また次の人が借りてって、共同で同じ本をみんなで分け合うみたいなさ。
うん、なんかシェアっていう感じですよね。
でも、タイって体、体ってひとつのものじゃないですか。
私の体もあなたのものも、ひとつのものなわけじゃないですか。
だから共同体って、みんなでひとつの体になってる状態が共同体なわけですよね。
でも、みんなで図書館の本をシェアしたり、最近よくある自転車(シェアサイクル)とか、シェアリングエコノミーみたいなものってさ、共同ではあるけど「体」ではないじゃん。
それをひとまとまりにして一個の体だよね、みたいな感覚ってまったくないじゃん。
限りあるリソースをみんなで分け合っているっていうだけで。
でも、そのいわゆるコミュニティと同義語である共同体っていう言葉の中には、共同でありながら体であるっていうことも含まれているっていうのが、すごい面白いなっていうふうに思うんですよね。
あのね、父親とたまに話すんですけど、父親は今76歳かな。
なので、もうとっくに定年退職して、もともとサラリーマンやってたんですけど、会社の感覚が僕と全然違うんですよね。
会社っていうか、同僚に対する感覚。
父親は76になった今でも、会社の人と一緒にご飯を食べに行ったり、限られた人ですけどね、その同僚の人たちと、会うまではないまでもさ、お互い年賀状を交換したりさ。
76にもなると、亡くなっちゃう人もいたりしてさ。
「じつはあの人亡くなったんだよね」みたいな話を聞いたら、めちゃめちゃ心痛めて、「あいつ、ああいうやつだったんだよな」みたいな、すごく、自分のふるさとみたいな感覚が会社にあるんだろうな。
ただ共同で仕事をしていた、お金をもらうために共同で同じ場所に集まって、あるルールのもとで仕事をしていたっていうだけではなくて、みんなで集まってひとつの大きなまとまりとして、すごく長い時間を過ごしてきたんだっていう感覚が、父にはあるんだろうなっていうふうに。
僕はね、父親の思い出話とかいろいろ聞いてて感じるんですよね。
一方で、僕は今の会社にちょうど20年勤めているわけですけど、今日が3月31日で、今日でね、ちょうど20年なんですよ。
勤続でもそういう感覚がないね。
たぶんね、僕は会社の人と定年してから、定期的に遊んだり、ご飯を食べたりっていうことはないと思う。
でも、だからといって別に会社に仲のいい人がいないわけではないし、すごくうまくやらせてもらってるというか、仲良くやらせてもらってはいると僕は思っているけれども。
ただ、会社の中ですごく密にコミュニケーションを取っているから、わざわざ仕事の時間以外でコミュニケーション取るのもな、みたいなのが逆にあるんですよ。
父親なんかはさ、レクリエーションで野球とかやってたりしたんだけど、僕はわざわざ休みの日に会社の人たちとつるむのって、ちょっともったいないような気がして。
できるだけ仕事じゃないところで、仕事の人以外のところで人と関わっていきたいなっていうふうに思う感覚があって。
でもそれは根っこの違いとして、その共同体感覚が非常に薄いからなんじゃないかなと思うんですよね。
共同体だと思ってたらさ、仕事の時間だけって思わないと思うんですよ。
体なんだからね。
僕、たぶんね、人よりもその体感覚というか、「一個の体である」みたいな感覚って薄い方だと思うんですよね。
僕、東京の町田っていうところの出身なんですけど、町田に対して自分のふるさとだなって感覚もほとんどないし、同じ小学校とか中学校とか高校とかに通ってたみたいなことでも、仲間意識も一切ないし。
ただその時間そこにいて、みんなと仲良く過ごしてただけだよねっていう感覚の方が強いから、共同って感覚はあるんだけど、体って感覚ってほんとにないんですよね。
でも、年を取ってきて、昔よりは、この共同体っていう感覚がわかってきたような気がしていてね。
この時間ここに一緒にいる人たち、みたいなことではなくて、一緒にいようがいまいが、緩やかに繋がってるんだなみたいな感覚が昔よりは芽生えてきたような気がする。
それはシンプルに、会社の同僚とか、僕の場合はお芝居を一緒にやっているカフェの仲間とか、そういった次元でも、共同体感覚が芽生えてはきたし、もっと大きく言うと、世の中の人たちっていうのは広い意味では繋がってるんだろうな、みたいな、なんかそういう感覚がね、昔よりは出てきたんですよね。
極端な話さ、人間って、個人として生まれるわけじゃないですか。
だから、自分は自分だし、他者は他者っていうのは、僕の中ではもう明確にあるんですよね。
最近読んだ本で、「自分とか、ないから。」っていう本があるんですけど、これは仏教の本で、「私っていうものってよくよく考えてみるとないんじゃないの」みたいなことがいろいろ書かれてる非常に面白い本なんだけど。
僕はでも、自分の意識と他者の意識っていうのは明確に分かれているものだから、やっぱり個人は個人だよねみたいな、この感覚からはやっぱり人間って切り離せないんじゃないかなっていうような、そういう意識が強いんですよね。
でも、なんだかんだ言って、人間って70年とか80年とかさ、生きたら死んじゃうわけで。
で、死ぬと、その「私」っていうものは捨てないといけないわけですよね。
死後の世界とか、神様とか、そういったものがいるかいないか、僕はわかんないけれども、ただ、少なくとも今自分が制御できているはずの自分という体を、死んでしまったと同時に制御できなくなることだけは間違いないわけですよね。
じゃあ、今の自分の意識っていうのはどこ行っちゃうのかっていうのは僕はわかんないけど、少なくともその「私」っていうのは、死と同時に一旦は捨てなければいけないことだけは確かでね。
ゾンビでもない限りはね。
一方で、自分が生まれる直前って、お母さんのお腹の中にいるわけじゃないですか。
で、お母さんのお腹の中で栄養とかを分け合って、ほんとにまさしく共同体っていう状態になってるわけじゃないですか。
お母さんと子供でひとつの体を形成しているという期間があって、そこから生まれた瞬間に子っていうものになるっていうさ、そういうものであったりもするから、その共同体って、もしかしたら非常に自然な話なのかなっていうふうにも思うんですよね。
生きていると、他者の人が考えていることをさ、なんか、おでことおでこをくっつけたら以心伝心みたいにその人の感情とか記憶とかが自分に流れ込んでくるみたいなシステムじゃないからさ。
やっぱり個人って感覚が強いけれども、ただ、それはこの短い人生の中で形成されているルールなのであって、やっぱり、その「体」っていう、自分の外もひっくるめてひとつの大きなまとまりだよねっていうものはあるような気もするし、あると考えた方が生きやすいような感じもしてきてるんですよね。
僕は元々そういう感覚が非常に薄かったがために、そういうふうに思えた方が、人間生きてて気持ちがいいというか、そういうのはね、最近思うようになりましたね。
特に、僕はずっと東京で生きてきて、東京って特に共同体っていうものが感覚としては薄い地域だと思うのでね、良くも悪くもね。
地方で生まれ育った人の話を聞くと、そういう共同体意識が強いことによる生きづらさみたいなものも、生きやすさみたいなものも、両方あるよみたいなことってよく聞くから。
そういったのはね、僕にはちょっとわからなくて。
そういうところで暮らしてたことがないからね。
だからこそ、あんまり僕が生まれ育った環境の中で、共同体好きっていうのが育まれなかったのかもなっていうのは思いますね。
父親は会社でコミュニティみたいなものを持ってたのかもしれないけど、父親自体は東京の出身の人じゃないから。
町田って、東京の中でも郊外だけど、あんまり歴史がないんですよね。
僕が育った時期って、ドーナツ化現象によってそこに人が移り住んできて、人口が増えてくる時代だったので、どっちかっていうとね、ニューカマーの時代だったんですよね、うん。
だから、何百年前から、何百年も前じゃないかもしれないけど、同じお祭りが毎年一回夏にあって、みたいなこともあんまり引き継がれてなかったり、共同体っていうのが、あんまりピンとこなかったのかもしれないけれども。
そんなわけでね、今回は感覚的な話だったり、抽象的な話だったりもしますが。
もしよかったら、あなたの共同体感覚も聞かせてもらえると嬉しいなって思います。
はい、今日はそんなところで終わりにしようかなと思います。
今回もありがとうございました。バイバイ。