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512.「生きづらさ」と「マズローの欲求五段階説」

こないだね、友人とLINEでやり取りしてて、生きづらさっていうワードが出てきたんですよね。

よく出てきますよね、生きづらさって。
現代社会に生きてる人って生きやすいように外側から見えていても、どこかしら生きづらさを抱えていると思うし、「私、生きてて楽しいことばっかりなんです」っていうブランディングをしている人でも、やっぱりそれは見せていない生きづらさっていうのがあるんじゃないかなって思うんですよね。
それを表に出すか出さないかとか、気づいているか気づいていないかっていう差はあれど、誰しもそういうものは大なり小なり抱えてるんじゃないかなっていうふうに思うんですよ。

生きづらさっていうのを考える時に、すごい有名なマズローっていう人の「欲求の五段階仮説」っていうのがあって、まあね、知ってる人が多いと思うんですけど。
欲求っていうのはピラミッド状になっていて、下の層の欲求が叶えられていくと、上の層の安全を人間は求めるようになっていって。
要は、その五段階のうち、一番下の5のところが叶えられると、今度4のところの欲求になって、3のところ、2のところ、1のところっていうふうに欲求のフェーズが上がっていくよって言っていて。
これも実はそうじゃない、マズローはそんなこと言ってないみたいな諸説あったりするんだけれども、そう言ってたとして。

その五段階っていうのが、まずは生理的な欲求っていうのが一番下にあるよと。
生理的な欲求っていうのは、いわゆるお腹が空いたけれどもごはんが食べられないとか、眠れないとか、そういった人間の生命に直接影響するようなところが満たされていないと、まずそれを人間は求めるよね。
例えば、戦争のさなかとかだったらさ、もうとにかく生き延びたいってことしか考えないじゃない。
生きづらいなとかそんなことにはならなくて、とにかく今日生き延びなければいけない、弾が飛んでこないところに隠れなきゃいけないってことだけは思うじゃない。
そういうことだったりもするよね。
あとは、サバンナとかに住んでたら、いつライオンに食われるかどうかわかんないからさ、そういうことだったら、まずは生理的な欲求、今日のごはんにありつけるのかどうかっていうところだよね。

次に安全の欲求っていうところですよね。
震災とかがあったりすると「また余震が来るかもしれない」なんてさ、自分の安全性みたいなところを確保したいよっていう欲求が出てくるんじゃないかなっていうのがありますよ、と。

この生理的なものと安全性っていう欲求がクリアされると、今度、社会的な欲求っていうのが出てくるよと。
社会的な欲求っていうのはなにかというと、社会の中で自分が認められているかどうか、会社の中で自分はちゃんとした地位が築けているんだろうか、結果が残せているんだろうか、出世できているんだろうか、みたいなところが大事になってくる。
なんとなくわかる気がしますよね。

自分が生理的なものも、お金ある程度持ってるから大丈夫ですよと。
安全面に関しても、誰かにいきなり殺されるようなことはないだろうから大丈夫だよ、そしたら社会的に自分がどういうところにいるのかってところに欲求が行くのは、それはわかるような気がすると。
で、それがクリアされていくと承認欲求っていうふうになっていくと。

これは、例えば恋人は自分のことを本当に好きなんだろうかとか、友達は自分に本当に会いたいと思ってくれてるんだろうかみたいな、自分の社会的にどうかっていうことよりも、自分と日頃接している個人が自分に対してどういうふうに思っているんだろうかみたいなところが、欲求のフェーズとして変わってくるっていうね。

社会的な欲求っていうのと承認欲求っていうのが、どっちが先に来るかっていうのは人それぞれってとこもあるのかもしれないけど、これもわかるような気がするっていうところで。
それがクリアされると、最後に自己実現の欲求っていうのが出てきて、自分の叶えたい目的みたいなものがあって、それを実現させていきたいっていうね、そういう欲求が最後に出てくるよ、と。
こういう五段階の欲求っていうのが、マズローの言う五段階仮説っていうものみたいなんですね。

さっきの「生きづらさ」っていうところに戻った時に、実際にマズローがどういうつもりでこういう五段階仮説を出したかっていうのは諸説あったりするのでなんとも言えないし、時代背景っていうのも往々にしてあると思うんだけれども。
現代にこの話を置き換えた時に、この五段階の図式には実はなってないんじゃないかなっていうふうに僕はちょっと感じていて、さっきの「生きづらさ」の話に戻るとね。

多くの場合、生理的な欲求っていうのは、ある程度叶えられてると思うんですよね。
世界的にっていうことは言わないですよ。
世界的には叶えられてないところもあるけれども、おそらく、このラジオを聞いている人たちが、明日なにが食べられるかわからない、もしかしたら明日一日なにも食べられないかもしれないってことになってる人は少ないんじゃないかなっていうふうに思う。
そう仮定した上で話をすると、多くの場合、この五段階目、一番最下層の生理的欲求は、先進国の社会においては、多くの場合は解決されているのかな。
貧困の問題があるからね。こんなこと言い切っちゃいけないんだけれども、そう仮定した時、というか、そう仮定しないと生きづらさっていうのがテーブルに乗ってこないと思うんですよね。
いわゆる貧困の問題の話をすると、そこに生きづらさの問題ってまたちょっと変わってくる。
生きづらさどうのこうの言ってる場合じゃないよって話になっちゃうので、一旦クリアしているというところで話をしていくと。

生理的欲求の次の安全の欲求、僕はここに尽きるんじゃないかなっていうふうに考えてるんですよね。
いわゆる社会的な欲求とか承認欲求っていうのも、社会的に自分がある程度の地位がないと、ある程度安定した企業に勤めてないと自分が安全じゃないと思うから、社会的な欲求っていうのが必要になってくる。
あとは、自分の家族や恋人とか友達に自分が承認されてないと安全じゃないから承認されてないっていうふうに考えるっていう、いわゆる自分が生活を営む中で、安全じゃないのでなにか承認されたいとか社会的に認められたいとか、そういったことが出てくる。
なので、自分は生きていて安全だっていうふうに思えているんであれば、生きづらさっていうのは八割方解決されるんじゃないかなって思うんですよね。

でもこれ、非常に不思議な話で。
マズローの言っている安全っていうのは、身に危険がないよっていうより、例えばスラム街とかに暮らしていてさ、歩いていたらいつカツアゲされるかわかんないとか、いつ後ろからぶん殴られるかわかんないみたいな、そういうことの安全性を言っているんだとしたならば、今の社会でそんなことってそんなにないですよね。
でも、多くの人は自分が安全でないと感じてしまうっていうところに、僕は生きづらさの要因があるんじゃないかなっていうふうに思ってるんですよ。

会社の中で、会社のルールっていうのがあって、会社のルールっていうのに自分はずっと合わせてきているけれども、自分の本心っていうのはなかなか会社の中では言えないと。
本心を言ってしまうと、会社のルールと相反してしまうから、なにも言わずにずっと我慢してやってきている。
でも、自分はここに馴染んでいる気がしない。
これってすごく安全じゃないことなんじゃないか。
言語としてそう感じなかったとしても、どことなくここにいるのは安全じゃないんじゃないか、いつか自分が本音をポロっと言ってしまった時に、一気にひっくり返って自分が危険な状態になってしまうんじゃないかみたいな、そういうことを思って、その安全性への欲求っていうのがクリアされないっていうことが起きてきているのかな。
会社でそんなんだったりすると、恋人といるときは安心に生きたいってことになるので、恋人に対する依存みたいなことが生じて、「あなたは私のことを本当に愛しているのかしら」みたいなことで、今度は恋人に対する安全性の要求がクリアされない、みたいなことになっていったり。
Facebookとか、そういうSNSに「いつメンだよね」って仲良くしているグループがいて、そのグループの中で、実は自分が全然知らない間に自分以外の仲間たちがどこかに出かけて遊んでる写真が上がってたと。
もしかして自分だけ嫌われてるんじゃないかしら、安全じゃないっていうことで、安全性に対する不安感みたいなものが生まれてくる、みたいな。

この安全っていうところにすべての生きづらさの要因みたいなものが帰結するのであれば、これをクリアしないといけないっていうような気がするんですよね。
逆に言うと、これをクリアしてさえいれば、自分はここで生きていて安心だっていうふうに思えているんであれば、一番上の自己実現の欲求っていうところに一気にいける。
で、その自己実現を追い求められている状況っていうのは、おそらく生きづらさっていうところからある一定程度は抜けられているんじゃないかなって。

生きている以上、ある一定程度の生きづらさってあった方がいいと思うので、全部なくなりゃしないんだろうけれども、その許容範囲に収まってくるというか、そういうふうになっているんじゃないかなって僕は感じるんですよね。
そうなってしまっている要因として、ほんとに安全に危険性があるわけではないのに、自分は安全じゃないんじゃないかって思ってしまう要因は、よく言われていることではあるんですけども、人間の脳みそって、原始時代からほとんど進化していないみたいなんですよね。
というのも、原始時代ってめちゃくちゃ長くて、原始時代から現代社会って、そのタイムスパンでいったらすごく短い期間なので、人間の脳が進化するのに間に合ってない。
これから例えば何百年とか経てば、現代っていうものに人間の脳みそはフィットしてくるかもしれないけど、あまりにも社会は急激に変化しすぎて間に合っていないというところがあって。
人間の脳みそはいまだに「いつライオンに食われるかわからない」っていう脳みそのまま生きているので、自分が生きて、普段社会生活を営んでいて、誰も私のことを攻撃してないし、自分のことを嫌いだっていう人が自分の身を脅かすこともないだろうみたいなことを、なかなか思いづらい仕組みをしているだろうなっていうふうに思うんですよね。

だから、「考えすぎだよ」みたいなことじゃなくて、脳みその仕組み上しょうがないんだと思うんですよ。
ただ、そういう仕組みで人間っていうのは生きてしまっているんだな、脳みそと実際の社会の実情っていうのが乖離した状態で人間は生きてしまっているんだなっていうことを理解した上で、日々の不安感というのを持っているのと、そういうことはまったく思わずに「自分は身が危険なんだ」ってことで、恋人は自分のことを、友達は自分のことを、会社の人たちは、自分は他の人に比べて出世が遅れてるんじゃないかしら、みたいな。
老後、自分は食いっぱぐれて死ぬんじゃないかしらとかさ。
自分は今独り身だけど、将来ひとりぼっちでボケて大変なことになるんじゃないかしら、みたいな。
そういうことっていうのは、脳みその仕組み上起きていることであって、実際にそれは杞憂なんだってことを理屈でもいいからわかっておいた方が、生きづらさっていうのも収まってくるんじゃないかな。

その上で自分の感じている感情みたいなことを考えることができれば、もっと冷静に自分を客観的に捉えることもできるようになってくるので。
自分も、もちろん生きづらいなと思うこともあるし、そんなこと割り切ってさ、自分は安全なんだって思い込めているわけでもないけれども、そこに立ち返ることによって少し症状が和らぐというか、そういうことがあるんじゃないかなって、なんか、そんなふうに思ったの。
友達とのLINEのやり取りでね。

その友達も、自分はなんか生きづらいなと感じていて、みたいな、そんな話をしてたんでね、そこで思いついたので、今日はそんな話をしてみました。
自分の生きづらさについて考えるきっかけにしてもらえたら、嬉しいと思います。

はい、今日は、そんなところで、終わりにしようかなと思います。
今回もありがとうございました。バイバイ。