オンライン喫茶 4th place
オンライン喫茶しゃびのオフなひととき(テキスト)

513.「厨二病」という、かけがえのないシーズン

こないだ娘が小学校を卒業してね、中学の入学式に行ってきたんですけど。

娘が生まれて、幼稚園の入園式、卒園式、小学校の入学式、卒業式。
で、中学の入学式ってね、見てきたんだけど、やっぱりすごい感動したのは、幼稚園の卒園式なんだよね。
もう、ほんとにね、涙が止まらなかったね、あの時は。

幼稚園の卒園式ってね、娘の卒園っていうだけじゃなくて、娘のお友達に対する思い入れがものすごい強くて、「あんなにちっちゃかった子供達が、こんなに大きくなったんだ」みたいな感慨深さで、卒園式の時に、娘が登場する遥か前から泣いてるっていうね、そんな思い出があったんだけど。
小学校の卒業式になってくると、僕自身も娘の友達と関わり合いがほとんどないので、なんかこう、娘の友達が「おっきくなったね」みたいなのはないんですよね。

幼稚園の時って、娘の友達ともすごい遊んでたし、送り迎えとかもしてたし。
でも、小学校は自分で行ってさ、で、どんどん娘も自立していって、遊ぶ時も自分で友達と遊ぶようになっていくからさ、やっぱり、この幼稚園と小学校の感覚の差って、イコール娘の自立っていうことなんだろうなっていうふうに思いますよね。

やっぱり、ほとんど知らないしね。
顔もわかるし、娘からいろいろ聞いてるから、「この子が〇〇ちゃんっていうんだ」みたいなことである程度認識はしてるけど、伝え聞いた話だけだからさ、幼稚園の時とは感慨深さが全然ね。
小学校の方が6年間もいたけど、そういうの、あるな、なんてね、思いましたね。

中学なんてもう完全に、娘も親が付きっきりなんてことはまったくないからさ、もう勝手にある程度やるからね。
だからあんまりね、中学の卒業式っていうので泣いたりとかもないんだろうなっていうふうには思いますけど。

うちの娘は、すごい積極的なタイプの人なんですよね。
「なにかやる人」っていうと、必ず手を挙げて立候補するタイプで、小学校の時の代表委員とかさ。
あとね、区を代表して広島に施設団として行く、原爆のね、終戦記念日のあたりで区の代表として施設団で行くみたいなのも、娘、立候補して行ったりしてて。
とにかく、代表して、先頭に立ってなにかやるみたいなのが好きな娘なんだけど、中学に入学した翌日にね、さっそく学級委員の立候補みたいなのがあったらしくて、早々にまたそれに手を挙げて、その決選投票を待ってるみたいな、そんな状況らしいんだけど。
願わくば、そういう積極的な姿勢っていうのは、失わないでほしいなっていうふうに思いますね。

僕の中で中学高校って人生の中でけっこう大きな影響のある時期だなって思っていて。
その人によって成長のスピードも違うし、社会環境に対する順応の仕方も違うからなんとも言えないんだけど、やっぱり幼稚園とか小学校ってある程度子供として振る舞っている時期だったりもすると思うんですよ。
だからといって大人から見えてるほど子供ではないとは思うけれども。
ただやっぱり中学高校って思春期って言って、「厨二病」って言ったりもするじゃない。
すごく自意識が芽生える時期だと思うんですよね。
人生の中でも一番自意識過剰になる時期だと僕は思っていて。
で、自意識過剰になることはすごく人生において大事なことだと思う反面、自分のもともと持っている特性みたいなものを捨ててしまう時期でもあると思っているんですよね。

僕の例でいくと、人前に出ていろんなことするのが好きだったんですよね。
代表でリーダーシップを取ってないかやるのが好きなわけではないんだけど、人前でなにかやるのがすごい好きな子供だったんですよ。
目立ちたがり屋でもあってね。
でも、そういうことを中学に入るあたりですごい反省しちゃって、中学、高校とね、努めて大人しく振る舞うようになっちゃったんですよね。
人前に出るのも目立ったりするのもやめよう、みたいなふうに思っていた時期で。
今40過ぎて振り返ってみると、自分はやっぱり人前に出るのがすごい好きなタイプで、おとなしく振る舞うのは自分にはあんまり合ってないんですよね。
だけど、中学、高校の自分が一番自意識過剰な時期に、そういった自分の特性に対して反省しちゃったところがあって、自分を押し隠して生きていくっていう時期を僕は迎えてしまったし、実際多くの中高生って、そういう要素があると思うんですよね。

あんまり、無邪気に振る舞い続けられる中高生って少ないと思うんですよ。
で、そういった、自意識が過剰に芽生えてくる時期を迎えること自体は、僕はすごく大切だと思ってて。
逆に、その自意識があまり芽生えないで、中高生を終わらせてった場合って、中高生の時期は比較的生きやすいかもしれないけど、大人になってから自分を大事にするっていうところに対して意識が薄くなっちゃう人が多いような気がするんですよね。
自意識が薄いタイプの人って、いつの間にか自分をすり減らされてしまうというか。
自分を大事にする、自分はこうしたいんだ、でもまわりにはこう求められてるんだっていう自分の意思と、社会に求められてるところの衝突が少ないから、全部受け入れてしまって。
会社に勤めていたりすると、学生の時よりはいろいろと風当たりも厳しくなってくる中で、いつの間にか自分をすり減らしてしまって、ストレスを溜めてしまって、鬱になってしまうとか、そういったことにも繋がりやすいように僕は思うんですね。
僕は専門家じゃないから好き勝手しゃべってますけどね。

そういった意味で、自分とめちゃくちゃ向き合いすぎてしまう時期っていうのは絶対あった方がいいとは思うんだけど。
逆にそこで自意識過剰になりすぎて、自分を押しとどめることを社会適応の中でやりすぎてしまうと、大人になってもそれをやってしまうというか、それに慣れてしまうので、どんどん自分の内側に溜め込むものが増えていってしまって、自意識が薄いパターンとは別の意味で、なにかこう、自分を壊してしまうみたいなことが起きるような気が僕はしていまして。

僕はどっちかっていうと後者だったんですよね。
僕、すごく自分を押しとどめていた期間っていうのが、10代の頃がずっとそうだったので、なかなか鬱屈した若者時代をね、過ごしてきたんですよね。
なんか、「厨二病」をずっと引きずってるっていうか。
20代も前半ぐらいまでそういう感じが続いていて。
そこから20代後半にかけて仕事がけっこううまくいき始めては来たけども、やっぱり自分を出すっていうところに関しては、すごく抑制的な20代だったりもして。
30代になってからだんだん、自分ってこういう人間なんだな、自分ってこういうふうに振る舞いたいんだな、こうしてると心地がいいんだなっていうことに、たまたまその時期に出会った人間関係の中で内省っていうのを覚えてきて、昔の自分を取り戻してきたみたいな、そんな経緯があったりするんですよね。

で、娘のことに戻ると、自意識みたいなものは芽生えていいとは思うんだけど。
いろんなことに立候補したい、学級委員とかもやりたいっていうか、自分に対してある種の恥ずかしさみたいなものとか、そういうことで嫌われたらどうしようみたいなことが、一定程度は芽生えてくるかもしれないなと思うんですけど、それでも手を挙げ続けるっていう自分であってほしいな。
意識は芽生えるけども、それでもこういうふうにしたいっていう自意識と向き合った上で、それを自分の意思の力で乗り越えられるような人間になってほしいなっていうふうに、親ながらには願いますよね。
あんまりそれを押し付けはしないけどね。娘の人生だからね、願っているっていうかね。
まあ小学生の時の感じのまま中学、高校って行くとは思えないんだけれども。
自分みたいに、極端に中学、高校で抑制的に振る舞おうとしすぎるっていうふうにはならないでほしいなっていうか、そんなふうに思いますね。

皆さん、どうですかね。
自分の半生を振り返った時に、小学校、中学校、高校、大学と、10代の頃って、今の自分と比較してどうだったかっていうのね、もしよかったら教えてもらえると嬉しいな、なんていうふうに思います。

僕はさっき言った通りね、もっとも鬱屈してた時代が10代ですから。
でも、そういう10代があったからこそ、今に生きてるって思うところもあるんですよね。
逆に言うと、そこから開放されていくストーリーが自分の中では、まわりの人のおかげでそういうふうになることができたんで、あの頃、10代に鬱屈してたのって、すごく良かったなって思えるようにはなったけれどもね。
うん、ほんとにね、おかげさまって感じですね。
もうほんとに、いい人に巡り合うっていうのが一番だなっていうふうに思いますね。

そんなわけでね、娘の中学校入学で感じたことについてお話をしてみました。
今日はそんなところで終わりにしようかなと思います。
今回もありがとうございました。バイバイ。