この週末の土日は、けっこうな勢いで人としゃべってましたね。
別になにか打ち合わせをしてたっていうわけじゃなくて、普通にお茶してしゃべってたんですけど、多分全部合計すると10時間11時間とか、そのくらいしゃべってたんじゃないかな。
いろんな人とね、おしゃべりをしていたわけですけど。
ほんと、雑談だけどね。
そのなかでいろいろ思ったことがあって、思ったことっていうか、もともと思ってたことでもあるんですけれども、やっぱりね、つくづく、この世の中をよく生きていくためには、「自律」が必要だなって思いますね。
自律ってめちゃくちゃ大事だなって僕は思ってるんです。
生きていく上でね。
幸せっていう言い方が当てはまるかわからないけども、この世の中を心地よく生きていくためには、自律がすごい大事だなっていうふうに思いますね。
じゃあ、自律ができていない状態っていうのはどういう状態かなって思った時に、自律の逆を、例えば依存っていう状態だとすると、自分ひとりじゃやっていけないよと。
で、なにか依存する対象があって、例えば恋人だとか、配偶者だとか、場合によっては宗教だとか、自分が所属しているコミュニティだとか、そういった自分ではないものにすごく頼ることによって、自分を立たせているっていうのが、自分で立ってるわけじゃないから、自律してない状態と言えるかもしれないなというふうに思うんですね。
僕が考えている「自律」っていう状態って、じつは依存が不可欠だとも思ってるんですよね。
「依存なくして自律はない」っていうふうに考えていて。
ただ、依存の仕方が健康的である必要があるよねって思うんです。
その健康的な依存の仕方っていうのが、どういうことかというと、これはすごいよく言われてることなんですけれども、依存先を複数持つことで。
いい依存の仕方っていうのは、依存が分散されている状態だっていうのは、よく言われることでね。
例えば自分に恋人がいて、その恋人だけが自分のことをわかってくれるんだと。
この人がいるから自分はやっていけるんだ、外は世知辛い世の中だけれども、みたいな状態から、その恋人にもちょっと依存して、友達にもちょっと依存して、会社の同僚にもちょっと依存して、上司にもちょっと依存して、みたいな、実家の家族にもちょっと依存して。
みたいな状態が、1人の人に偏っているよりは健康的な状態で、やっぱり1人とかひとつの対象に依存しまくっているよりは、自律にちょっと近づいているんだろうなと思うんだけど、それだけだとちょっと足りなくて。
たぶん、依存っていうものの粒度を高める必要があると思ってるんですよね。
友達とか家族とか恋人とか、そういった具体的な人物とか思想とか宗教とか、そういったものだけではなくて、もっと細かい依存対象に気づく感度を身につけるっていうのが、けっこうキーになってるような気がしていて。
これ、どういうことかというと、例えばだけど、自分の家の近くに個人経営のコーヒー屋さんがありましたと。
そこは毎日、おいしいコーヒーを出してくれますと。
自分は毎朝そこで1杯のコーヒーを買って、飲みながら会社に行くのがすごく好きですと。
そのコーヒー屋さんでコーヒーを作ってくれる、その人が作ったコーヒーを飲むっていうことも、ちっちゃな依存であると思うんですよね。
あとは、誰かから譲り受けたものを大切に使っているみたいなことも、間接的に人に対して依存している状態だと思うんですよ。
思い出の品とかね。
そういうことをひとつひとつ細かく、自分はこれがあるからちょっと心地よく生きられているな、みたいなことが実感できるものっていうのを、細かく細かく、ちょっとずつちょっとずつ作っていく、気づいていく、意識していくっていうのがいいような気がするんですよね。
それは例えば、公園で木が鳴っている音がすごい気持ちいいな、っていうことでもいいだろうし、近くの神社にお参りをすると心が洗われたような気がするな、みたいな。
たぶん、依存って、そこまで行くと想像力の次元にも入ってくると思うんですよね。
自分がそのひとつひとつの出来事に関してどういったことを想像しているかが、依存を細かく分散させるっていうことに繋がってくるような気がするので、そういった感度も高めた方がいいよなっていうふうに思うんですよね。
最後に、一方で、どこまで行っても人間って孤独なものだと僕は思っていて。
それはどんなに細かくいろんなものに依存したとしても、その人たちと真の意味でつながれるってことはないんですよね。
肉体的に自分っていうのが別々に、あらゆる対象から離れてしまっているので、どこまで行っても自分のことを誰かがほんとにわかってくれることはないし、コーヒーでちょっと救われた気持ちになったとしても、真の意味でそのコーヒーと自分が繋がっているわけではないっていう。
うん、なんかすごい悲しい話だけれども、どこまで行っても、この世で生きてる限り自分は孤独なんだっていうのは大前提としてあると思うんだけど。
大前提として自分は孤独なんだっていうのを認識した上で、ひとつひとつの細かく依存できる対象っていうのを感じる感度を高めていくっていうのが、一見それは孤独感と隣り合わせだから寂しいことのように思えるんだけど。
ただ、トータルすると、それが一番なんだろうと。
精神的に安定する生き方のような気がするんですよね。
うん、なかなか難しいけどね。
いろんなことがあるからさ、会社で自分と合わない上司がいるとかさ。
学生さんで実家に住んでいるとしたら、親がすごくいい大学に行くことを求めてくるとか、そういう居心地の悪さっていっぱいあるじゃないですかね。
恋人が浮気してるんじゃないかしらっていうのはさ、依存先を分散させたところで嫌なものは嫌だからさ、そういう外側の要因で、すごく心がそわそわするっていうことは絶対に出てくるんだけどね。
毎日心が穏やかだな、なんてことを思って、なんのストレスもなく生きていけるってことはないんだけれども、そんな中でも、今話したようなスタンスが取れていれば穏やかな状況に戻ってこられるような気がするんですよね。
さっき、ストレスっていうワードを出したけども、その中に多少なりともストレスっていうのがあった方が、逆に安定するような気もするしね。
まったくストレスがない状態ってあんまり良くないよって言われたりもするし、自分の中で、外界と接していて、これってちょっと緊張するな、とか、明日プレゼンしなければいけなくて憂鬱だな、みたいなことって。
巨大なストレスっていうのはあんまり良くないけど、ちょこちょこストレスがあった方が活力みたいなものも出てくるしね。
バランスとしては、そういうのが適度にあったような方がいいような気がしますね。
ウェルビーみたいな話をするとさ、もういろんな分野になっちゃうから、あんまりごちゃごちゃと話したくはないけどね。
例えば運動とか食習慣とか、そういうことだってメンタルには大事だったりするから。
そんなことをいろいろ言い始めてたらきりがないけども、生き方としてね、そういう細かい依存先を感じている状態っていうのが、生きる上ですごく大切なような気がしたのでね。
ちょうどね、友達とおしゃべりする中で、そんな話になったんですよ。
だから、ちょっとしゃべってみたいなと思って、こんなテーマで今日は話してみました。
僕が友達と話す時間みたいなものも、立派なひとつの依存先になってるんだろうなって、僕自身思います。
はい、今日はそんなところで終わりにしようかなと思います。
今回もありがとうございました。バイバイ。