SNSのトレンドに、宇多田ヒカルさんの歌詞についていろいろ意見が載せられていたので、それについて考えてみたいなと思うんですけど。
最近、宇多田ヒカルさんが「Mine or Yours」っていう新しい曲を発表されたということで、その新曲の歌詞についていろいろ賛否がありますよっていうところなんですけれども。
ある種の批判の矢面になっている歌詞っていうのがあって、それが
「令和何年になったらこの国で
夫婦別姓OKされるんだろう」
っていうところなんですよね。
その、夫婦別姓の是非とかは置いといて、「なんで歌詞にこんなバリバリの政治思想的なことを乗っけるんだ」と。
「宇多田ヒカルも落ちたもんだな」みたいなね。
そんなことがいろいろ言われているわけですけれども、これに対してね、僕、すごい思うことがあってね。
結論を言うと、この意見言ってる人、大丈夫かなっていうふうに、僕はそっちを逆に心配になったんですね。
どれぐらいの人が、歌詞に政治的な思想みたいなのを乗っけることに違和感を抱いているのかっていうパーセンテージはわかんないですよ。
大体、SNSにそういった意見を表明する人なんて、全体のうちの何割かでしょうから。
それがマジョリティかどうかっていうのは知らないけれども、トレンドに上がるぐらい。
でも、そういう意見が上がってるってことは、それなりの人が思ってるってことなわけじゃないですか。
これはね、すごいおかしなことだなっていうふうに僕は感じていて。
おかしなことだなっていうか、こんなことで大丈夫かなっていう心配がけっこうあって。
その理由は2つあって、日本だと音楽とかお笑い芸人さん、コメディアンの方がネタで政治思想を表明するようなことってあんまりないじゃないですか。
そういったことがあると批判されたりっていうね、そういう風土があると思うんですけど。
おそらくこれは全世界的に見ると、コメディアンの方がお笑いのネタとして政治を取り上げる。
そこにその人の思想が色濃く反映されているのはものすごくメジャーなことだし、特に音楽は政治思想の強い方が音楽を作っているケースっていうのは多くて、もうほんとに過激派のようなミュージシャンが有名な人でもいてね、バリバリ歌詞の中に自分の意見を入れてやってるような人も多いわけですよ。
僕が昔、けっこう好きだったミュージシャンで、Rage Against the Machine(レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン)っていうロックバンドがあるんですけど、この人たちはほんとやばくて。
ボーカルとかMCなんですけどね、ミクスチャーロックなんで。ザック・デ・ラ・ロッチャっていうMCの人がいて、この人はね、バリバリの左翼なんですよね。
ニューヨーク証券取引所の前かなんかで、貨幣経済を批判する曲をめちゃくちゃ流して歌って逮捕されるみたいなね、そんなような人だったりもするわけですよ。
それに比べたらね、「夫婦別姓OKされるんだろう」っていうのを歌詞に乗せるっていうのは、ものすごくマイルドなことだなっていうふうに思ったりもするんですけど。
基本的に表現者って、なにかしら自分が訴えかけたい感情っていうのがある。
それが強いので、そういった表現活動をしているって要素は、全員とは言わないまでも、そういう思いの強い人って多いはずなんですよね。
だって、自分がなにか訴えたいことがないのに、いろんな人の目に触れる場所に自分の表現媒体を置くって、リスクでしかないわけじゃないですか。
批判に晒されたりもするわけだからね。
それは音楽だけでなくて、小説家であっても、映画監督であっても、役者であっても、人前でなにかを表現するっていうのは、そこに思想という形で、政治思想みたいな形で持っている人だけではないかもしれないけど、なにか訴えたいことっていうのがある人が多いわけですよ。
だから、歌詞っていうのは必然的になにかしらの意見の表明になりやすいっていうのは、実情としては当たり前にあることだと思うんですよね。
それに対して聞いた人が「いや、それは」って思ったり「そうだそうだ」と思ったり、批判したり共感したりすることによって、表現を受け取った人も感情が揺さぶられて意見を持てるようになるとか、そういった効果もあるわけで。
だから意見を表明すること自体はあって然るべきだと思うんですよね。
逆にない方が、うーん、打たれるものが少ないんじゃないかなっていうふうに思う。
ただ、日本は政治に関する表明をすることについてはわりと冷ややかっていうのがあるので、たぶんこういった批判につながっているのかなっていうふうに思います。
おそらくそれは、戦後の日本の思想みたいなものが、表現媒体に政治思想を持つことに対する危機感みたいなものを醸成しているのかなっていうふうには思うんだけど、これって表現する人の性だよっていうのはね、すごい思いますね。
これが1つ目で、2つ目の方が僕の中ではすごく強く思っていることで、そもそもです。
なんで歌詞にそれを載せた時だけ、そんなに反応するのかって思うんですよね。
例えば映画でさ、「いつになったら夫婦別姓ってオッケーされるんだろうね、私たちいつまで経っても私は私、あなたはあなたでいたいから、姓も別々でやっていきたいんだよね」みたいなセリフが仮にあったとしてですよ。
「え、なにこれ、この映画おかしくない?」とは思わないじゃないですか。
その人はそういう意見のキャラクターなんだって思うわけじゃないですか。
それに対して「いやいや」と。
「君と一緒にいたいからなんだろう、名前も全部一緒にすることによって、君と一緒になれたってことを感じたいんだ」っていう人もいるかもしれないじゃないですか。
いろんなキャラクターがいる中でそういうセリフが出てきたって、特段問題ないわけですよね。
映画に限らず、ドラマだって小説だって同じだと思うんですよ。
これがひとたび音楽になった瞬間に、なんでNGになるのかってすごい思うんですよね。
なんで音楽にした瞬間に、それが全部私小説だと思うのって思うんですよ。
歌を歌う人だって、あるキャラクターっていうのを歌手という世界の中に投影させて歌っているかもしれないわけじゃないですか。
「夫婦別姓がいつになったらオッケーになるんだろうな」って思っている人がいるっていう設定の曲っていうことだってあり得るわけじゃないですか。
僕がすごく怖いなと思うのはここで、ある種これって客観性の欠如だと思うんですよね。
歌詞の場合は「書いてあることが全部その人の意見で、歌詞に乗せたということはこの意見をめちゃくちゃ世の中に訴えたいんだ」って受け取る。
でもそれが小説だったり漫画だったり映画だったり、ちょこっとセリフとして入れられているぶんには聞き流すっていう。
これって、繰り返しになるけど、客観性があまりにもなさすぎますよね。
なんで歌詞の時だけフィクションじゃないと思うの?っていう話なわけですよ。
その人はフリー投稿してるわけでもなんでもないじゃないですか。
宇多田ヒカルさんがラジオで言ったんならわかるよ。
「いつになったら夫婦別姓オッケーになるんでしょうね。私はもういい加減になるべきだと思うんですよね」って言ったんだったら、それは宇多田ヒカルさんの意見だから。
それに対してラジオ職人の人が「いや、私はそうは思わない。夫婦別姓はいつまでもやらない方がいいです」って答えてもいいと思うけど、歌詞だからね。
歌詞はさ、フリートークとは違うじゃないね。
それをわからないで、わからないでというか、感覚的にそういうふうに思えないのって、どうなんだろうなって思うんですよね。
これって日本独特なことなのか、そうでないのかわからないんだけれども、やっぱりね、客観性って大事だと思うんですよね。
例えば、宇多田ヒカルさんの歌詞を聞いて、夫婦別姓、いつになったらOKになるんだろうねって歌詞がありました。
で、自分はそれに対してどう思うかっていうのはあったとして、一次感情としてね。
SNSにそのことをコメントするまでの間にちょっと時間があるわけじゃないですか。
聞いてからちょっと考えて、コメントするまでの間にでも、「そういえば映画でもそういうセリフあったりするか」とか、「小説とか漫画でもそういうセリフあったりするか」って考える時間があるはずなんですよ。
それを一切考えずにポストしてしまうっていうのはどういうことなのかなって僕は思うんですよね。
それに対して怒りを感じるとかはないですよ。
別に僕の友達でもないし、僕でもないし、まったく知らない人だから勝手にすればいいんだけど、そういう人が観客として多いと、表現っていう世界が成り立たなくなってきちゃうんですよね。
見る人のリテラシーみたいなものが、表現っていうものを育てていく側面もあると思うからね。
やっぱりお客さんあっての表現だからさ。
お客さんが育ってないと、そういった意味のわからない批判みたいなものが増えていったら、政治的なことを言うとこんな目に遭うんだ、あまり言わないようにしようみたいなさ。
歌詞で書けることがどんどん少なくなってきちゃうわけじゃないですか。
そういうのって寂しいし、僕らが豊かな表現を享受できる機会を自ら失わせているような気がするんですよね。
繰り返しになってしまうけど、SNSでもいいし、なんでもいいけど、発言するときには一度、「それって客観的にどうなんだろうな、自分の意見って客観的にどうなんだろうな」っていうことをひとつ踏みとどまってから発言した方が、世の中いい方に向かうんじゃないかなって思ったので、今日はそういう話をさせていただきました。
昔と比べて、一人ひとりの発言っていうものの影響力が大きくなっていますからね。
昔みたいにSNSがなくて、電話で文句言うみたいなことで収まってる時代であれば、そんなことはさ、世の中に対してなんの影響力もないただのクレーマーのたわごとみたいに済まされていたことが、そういうことでは済まなくなってしまって、炎上的なことが起きてしまったりっていうね。
その辺はね、きちっと考えてやった方がいいんじゃないかなって。
自分のためにもね。
客観性がないっていうのはね、生きていく上ですごく損だと思うので。
うん、なんかそういうふうに思いますね。
今日は、宇多田ヒカルさんの歌詞に対するSNSの反応について思ったことをお話させていただきました。
今日はこんなところで終わりにしようかなと思います。
今回もありがとうございました。バイバイ。